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またまた久しぶりの更新になりました。
2005年(平成17年)2月17日、愛知県常滑市沖の伊勢湾海上に中部国際空港が開港したした。この開港を記念して記念貨幣が発行されました。 「中部国際空港開港記念500円銀貨」です。 中部国際空港(ちゅうぶこくさいくうこう、Chubu Centrair International Airport)は、愛知県常滑市沖の伊勢湾海上にある第一種空港です。時刻表などでは中部空港または名古屋(中部)、名古屋 (NGO) と略されることもあります。空港コードは、4レターコードはRJGG、3レターコードは名古屋空港(現・県営名古屋空港)のコードであるNGOが移管されました。 2005年(平成17年)2月17日に開港。2005年日本国際博覧会(愛・地球博)と並ぶ名古屋圏2大事業として話題を集めました。 愛称のセントレア(Centrair)は中部(Central Japan)と空港(Airport)を組み合わせた造語で、同空港管制の無線呼出名称および、英語名の一部に用いられています(Chubu Centrair International Airport)。空港の公式英語名に愛称が採用されたのは日本国内では初めてです。また、同空港の地名にも用いられています。空港の設置・運営は政府指定特殊会社「中部国際空港株式会社」(Central Japan International Airport Co., Ltd.:CJIAC)が行っています。 なお、同空港は着工に入る前頃まで、「中部地域の新しい国際空港」の意味を込めて「中部新国際空港」と呼ばれていたこともありました。 ![]() ■記念貨幣 ![]() ![]() 中部国際空港開港記念500円銀貨(プルーフセット) 図案 機内から見える中部国際空港旅客機と中部地方 発行日 平成17年2月14日(2005年) 直径 28.00mm 品位 銀1.000 量目 15.6g 斜めギザ 潜像 発行枚数 50.000セット(プレミアム貨幣で、すべて記念貨幣セット)
ワールドカップが終わり、またコインの話を進めようと思います。本当に長い間更新していませんでした。頑張って書いていきます( ̄▽ ̄)ノ_彡☆
2005年(平成17年)に名古屋で国際博覧会が開催されました。開催を記念した記念貨幣が平成16年から17年にかけて発行されました。 「2005年日本国際博覧会記念10.000円金貨」「同1.000円銀貨」「同500円ニッケル黄銅貨」の三種類です。 2005年日本国際博覧会(2005ねんにっぽんこくさいはくらんかい、The 2005 World Exposition, Aichi, Japan)は、2005年3月25日から同年9月25日まで、愛知県瀬戸市および同県愛知郡長久手町・豊田市の2会場で開催された国際博覧会です。略称は、開催地の名から「愛知万博」、愛称(日本国内のみで使用)は「愛・地球博」(あい・ちきゅうはく)です。 メイン会場は長久手町と豊田市を跨ぐ愛知青少年公園の長久手会場。博覧会協会の会長がトヨタ自動車名誉会長の豊田章一郎であったことや、博覧会の企画、宣伝(プロモーション)、運営、入場券の発売などについて、地元の巨大企業であるトヨタグループの全面的な支援があったため開幕前は「トヨタ万博」ともささやかれました。また、リピーターが多かったことも大きな特徴の博覧会でした。なお、入場の際に必要であった入場券には万博で初めて極薄のICチップが入ったものが採用されたりと、初の試みも多かったようです。 当初メイン会場として計画されていた海上(かいしょ)地区(瀬戸会場)にオオタカの巣があったことから、市民団体などの要望を受け入れてメイン会場を愛知青少年公園(長久手会場)に変更したのを機に、より環境問題を前面に打ち出すこととなりました。加えて、市民参加や自然体感といった取り組みが行われると共に、NGOやNPOといった組織も参加したので、初の市民参加型万博と言われています。 目標を大きく上回る入場者数とキャラクターグッズの売り上げにより、最終的に約100億円もの黒字を計上しています。 ■概要 開催期間:2005年3月25日~9月25日(6ヶ月、185日間) 主催:財団法人 2005年日本国際博覧会協会 面積:約173ha(長久手会場:約158ha、瀬戸会場:約15ha) 総事業費は1900億円(内,建設費1350億円、運営費550億円) 入場料:大人4,600円 中人2,500円 小人1,500円 全期間入場券17,500円 入場者数:2204万9544人(目標:1500万人) シンボルマーク:10個の緑色の点線による円(大貫卓也作) ■モリゾーとキッコロ 公式キャラクターとしてモリゾーとキッコロ(モリゾー・キッコロ)が制定されています。ともに瀬戸市の海上(かいしょ)の森に住む森の精という設定です。このキャラクターには声もついています(ただし、会場内やNHKで放映されたアニメや番組、中部電力のCMなど、一部に限られる)。モリコロ(公式)、モリキなどという略称があります。 モリゾー(Morizo)・・・愛知県瀬戸市の海上の森に住む妖精。緑色をしている。会場内での仕事はIMTSを運転すること。「おじいちゃん」と呼ばれているが、性別は不明。年齢不明だが縄文時代より前から住んでいるらしい。声:八奈見乗児 キッコロ(Kiccoro)・・・同じく海上の森に住む。性別不明だが一人称は「僕」。産まれたばかり。好奇心おう盛な性格で、行動力もある。普通は黄緑色をしているが、灰色・桃色・紫・水色・緑・橙などの色のキッコロ(カラーキッコロ)もいる。声:渡辺菜生子 このキャラクターは両方とも、アランジアロンゾ(他の作品にはベネッセコーポレーションの「たまひよ」など)がデザインしていいます。 ![]() ![]() ■記念貨幣 ![]() ![]() 2005年日本国際博覧会記念10.000円金貨(プルーフセット) 図案 表:地球とその自然 裏:シンボルマークと大地 発行日 平成16年12月10日 直径 26.00mm 品位 金1.000 量目 15.6g 発行枚数 70.000枚 ![]() ![]() 2005年日本国際博覧会記念1.000円銀貨(プルーフセット) 図案 表:地球と若木 裏:シンボルマークと大地 発行日 平成16年12月13日 直径 40.00mm 品位 銀1.000 量目 31.1g 発行枚数 70.000枚 彩色 白色、灰色及び青色 ![]() ![]() 2005年日本国際博覧会記念500円ニッケル黄銅貨 図案 表:地球と愛称 裏:シンボルマークと大地 発行日 平成17年2月14日 直径 26.50mm 品位 銅720/亜鉛200/ニッケル80 発行枚数 8.241.000枚
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平成15年に奄美群島がアメリカから返還されて50年になるのを記念した貨幣が発行されました。「奄美群島復帰50周年記念1.000円銀貨」です。
一般的には奄美諸島と呼んでいますが、奄美群島(あまみぐんとう)とは、薩南諸島南部にある島嶼群。鹿児島県の南部、大島郡にあたります。日本の法令においては「奄美諸島」の表記は用いられず、統一的に「奄美群島」とされています。気候は全体が亜熱帯に属し、珍しい生き物も多数生息しています。なお、薩南諸島の名称は、奄美では公的には使用するが一般では使われていません。それ以前に知らない者もいるようです。これは、薩摩と奄美を区別する考えからみたいです。単純に奄美や、種子島以南から沖縄に至る島嶼部を指す南西諸島の名称を好んで使っています。 奄美群島の歴史 ■先史時代 約6000年前に九州の縄文時代に影響を受けた土器が生産されるようになりました。初期は日本に近いものでしたが、後に奄美独自の宇宿下層式土器が生まれています。また、宇宿貝塚(奄美市笠利)では食用とされていた貝の殻や、九州との交易や装飾品に用いられた貝製ブレスレットの他、弥生時代の埋葬跡、中世の火葬場なども発見されています。 日本の歴史に登場するのは7世紀で、日本書紀の斉明天皇3年(657年)に「海見嶋」、天武天皇11年(682年)に「阿麻弥人」、続日本紀の文武天皇3年(699年)に「菴美」、和銅7年(714年)に「奄美」とあり、全て奄美諸島のことだと考えられ、当時から日本の中央と交流があったことがわかります。733年の第十回遣唐使は奄美を経由して唐へ向かっています。 「奄美世(あまんゆ)」と呼ばれることもあるようです。 ■グスク時代 農業が12世紀の前後には伝わり、狩猟採集生活から村を中心とした集団生産が始まったようです。歴史の常として、農業による貧富の差が生じ、有力者は沖縄本島に倣って按司(あじ)と呼ばれ、グスクと呼ばれる城を拠点にして、周辺を支配していきます。代表的なグスクに、奄美市笠利の辺留城(べるグスク)、和泊町の世之主城(よのぬしグスク)があります。有力な按司は勢力争いを繰り広げ、内乱が起こるようになったようです。 1185年の壇ノ浦の戦いで敗れた平家が、奄美諸島に敗走してきたという物語もあります。平行盛と平有盛、平資盛が喜界島に落ち延び、次いで奄美大島に渡ったのです。行盛は現在の龍郷町戸口に、有盛は奄美市名瀬浦上に、資盛は瀬戸内町加計呂麻島の諸鈍に居を構え、源氏の追随に備えていました。3ヶ所にはそれぞれを祀った行盛神社、有盛神社、資盛の大屯神社があり、多くの平家伝説が残されています。現在も奄美に多い苗字「平」や「平~」は、彼等の子孫であるとも言われています。 「按司世(あじんゆ)」と呼ばれることもあるようです。 ■琉球支配 奄美の按司は有力になると、やはり歴史の常として強大な国へ入貢する事になります。沖縄の歴史書には、1266年に三山時代の沖縄本島で勢力を争っていた中山王英祖へ入貢したとあります。しかし、内乱が続く沖縄に奄美を支配する力は無く、奄美の按司はもっぱら沖縄へ貢物を贈り、奄美の支配を承認されていました。しかし、1429年以降に尚巴志が沖縄本島を統一し、琉球王国が成立すると、奄美は琉球の被支配地域として見られるようになりました。尚氏の王統は安定せず、やがて金丸のクーデターで転覆するのですが、金丸の第二尚氏王朝第4代の尚清王は、1537年に奄美討伐を目的として遠征したが不完全に終わり、5代目の尚元王が1571年の討伐で圧勝し、奄美は琉球に服属しました。 「那覇世(なはんゆ)」と呼ばれることもあるようです。 ■薩摩支配 琉球の直接支配は長続きしませんでした。1603年に江戸幕府が開かれて日本が新時代に入ると、江戸は中国大陸の明と通航を考えるようになり、薩摩国薩摩藩の島津氏に、琉球王国を討伐して明と通じることを許可しました。1609年3月4日、島津軍団3000名余りを乗せた軍船が薩摩の山川港を出帆しました。3月8日に奄美大島へ上陸して制圧、3月22日に徳之島、3月24日に沖永良部島を軽々と攻略し、3月26日には沖縄本島北部の運天港に上陸、今帰仁城を落として首里城へ迫りました。武器が国王によって一元管理されていた王国は、鉄砲隊を主軸として、戦国を生き残った島津軍の敵ではなく、尚寧は和睦を申し入れ下城しました。島津軍は4月5日に首里城を接収し、4月半ばには薩摩に凱旋帰国しました。 薩摩藩は琉球王国から奄美の割譲を受けると、これを直轄地として1613年に総監を派遣して支配しました。住民に砂糖栽培を強制しましたが、この搾取は相当に過酷であったようです。薩摩は幕府や商人に砂糖を専売することで冨を手にしていましたが、砂糖ばかり作らされた住民は、ひとたび作物の不作が起こると、即座に飢饉に結びつくような有様でした。主食はサツマイモだったのですが、飢饉のときはソテツの実を毒抜きして食べていたといいます。 この苦しい生活を紛らわしたのは、サトウキビでできる黒糖焼酎(「セエ」と呼ばれた)と、三線に合わせて歌う島唄でした。セエは嗜好品として評判となり、密造酒が多数作られましたが、砂糖の収穫が減ると困る薩摩藩が、これを取り締まらなければならないほどでした。島唄は琉球とは違った響きを持つようになり、現在でも受け継がれています。 また、本国から離れたこの地は、流刑地に丁度良く、罪人が送られていましたが、流罪は主に政治犯だったりしたので、博学の彼等は住民に受け入れられました。幕末には西郷隆盛も流人生活を送り、島の女性と結婚して子供ももうけました。 この時期から太平洋戦争終了までを「大和世(やまとんゆ)」とも呼びます。 ■鹿児島県 明治維新と廃藩置県により、薩摩藩が廃されて鹿児島県となり、奄美諸島も含まれる事となりました。第二次世界大戦では、1945年(昭和20年)に沖縄本島が壮絶な戦いを行っていた頃、北隣の奄美には日本軍ニ万人以上が守備に就いていました。特に、奄美大島南部瀬戸内町付近は要塞化が進められおり、震洋特攻隊基地も数箇所に置かれていました。しかし、全体として小規模な空爆だけに終わりました。同年9月2日に日本が敗北した後、米軍によって本土から分割され、米国民政府の統治下に置かれましたが、降伏の際に日本軍守備隊は、奄美諸島が降伏文書に「Northern Ryukyu(北部琉球)」と書かれていることを発見し、米国が奄美を日本から分割するつもりであることを悟り、鹿児島県所属であることを訴えて調印しなかったのです。米軍が譲歩し、鹿児島県であることを確認した後に降伏しました。 1952年(昭和27年)4月に日本国との平和条約によって日本の主権が回復すると、翌1953年(昭和28年)2月4日に北緯29度以北が、残りの部分も同年12月25日に返還されました。ただし、このとき沖縄本島がアメリカ統治下にあったため、沖縄本島に出稼ぎをしていた奄美住民は戸籍上外国人となり、沖縄での労働が難しくなるという副作用もあったのです。公務員等の公職追放も行われ当時の琉球銀行総裁もその一人です。これは、復帰運動を日本共産党の影響を受ける奄美人民党(非合法)が指導した為、その影響が沖縄本島に及ぶのをアメリカ軍が阻止する処置との説もあるようです。 (ウキィペディア百科事典調べ) ![]() ![]() ![]() 奄美群島復帰50周年記念1.000円銀貨(プルーフセット) 図案 表:ルリカケスとテッポウユリ 裏:奄美群島 発行日 平成15年11月4日(2003年) 直径 40.00mm 品位 銀1.000 量目 31.1g 発行枚数 50.000枚 彩色 白色、黒色、青色、紫色、赤色、オレンジ色、黄色、黄緑色及び緑色
平成15年に青森県で第5回アジア冬季競技大会が開催され、開催を記念して記念貨幣が発行されました。「第5回アジア冬季競技大会記念1.000円銀貨」です。
第5回アジア冬季競技大会は2003年2月1日から8日まで日本の青森県で開催され、2003アジア冬季競技大会とも呼ばれています。 アジア冬季競技大会(あじあとうききょうぎたいかい、Winter Asian Games)は1986年以来数度に渡って開催されている国際競技大会です。 1951年に行われた夏季アジア大会は、開催を経る事に順調な発展をし、アジアのスポーツ振興に大きく貢献しました。 オリンピックに夏季大会、冬季大会があるように、スキーなどの冬のスポーツにおけるアジアの冬季スポーツ振興の為に、1982年に日本オリンピック委員会(JOC)が開催を提案。1986年に第1回が札幌市で7つの国と地域によって行われました。 途中で、ソビエト連邦の崩壊に伴い、カザフスタンなどが加入し、大会の競技レベルがさらに向上しました。 2003年に日本で3回目となる冬季アジア大会が青森県で行われ、大会史上最多の30の国と地域からの参加がありました。その中には北朝鮮も含まれています。 第5回アジア冬季競技大会データ 参加国・地域数 30 参加人数 約600 競技種目数 5競技51種目 開会式 2003年2月1日 閉会式 2003年2月8日 開会宣言 皇太子殿下 選手宣誓 木村公宣(男子アルペンスキー選手) 最終聖火ランナー 福士加代子(女子マラソン選手) 主競技場 青い森アリーナ この大会で日本は金メダル24個、銀メダル23個、銅メダル20個の合計67個のメダルを獲得しました。参加国中第一位の成績でした。 ![]() ![]() 第5回アジア冬季競技大会記念1.000円銀貨(プルーフセット) 図案 表:スキーとスケートの選手 裏:大会シンボルマークとりんご 発行日 平成15年1月22日(2003年) 直径 40.00mm 品位 銀1.000 量目 31.1g 発行枚数 50.000枚 彩色 白色、青色、赤色及び濃い赤色 (今回の銀貨から彩色加工された貨幣が初めて発行されました)
平成14年に日本と韓国で同時開催となった2002FIFAワールドカップを記念して記念貨幣が発行されました。「2002FIFAワールドカップ記念10.000円金貨」「同1.000円銀貨」「同500円ニッケル黄銅貨」です。
2002 FIFAワールドカップは、日本と韓国が共同開催した第17回のFIFAワールドカップです。大会期間は、2002年5月31日 - 6月30日。21世紀で初めて、アジアで初めて、更に初めての複数国による共同開催と初めてづくしの大会となりました。大会前は、フーリガンの暴動などを危惧する声が聞かれましたが、大会は無事に終わりました。また、寄付金が集まらずに赤字が懸念されましたが、円安の影響などで大幅な黒字でした。(外貨がドル建てで入った為) ■2002 FIFAワールドカップデータ 参加国・地域数 198 (本大会出場:32カ国) 開催国 韓国・日本 優勝 ブラジル (5回目) 試合数 64 総ゴール数 161 (1試合平均2.52点) 総入場者数 2,705,134 (1試合平均42,268人) 得点王 ロナウド (ブラジル) 8得点 最優秀選手 オリバー・カーン (ドイツ) ■大会招致の経緯 2002年に日韓で開催された第17回ワールドカップは、1986年に当時のジョアン・アベランジェFIFA会長(ブラジル)がこれまで欧州と南北米大陸で交互行われてきた開催地に、初のアジア・アフリカ開催を打ち出し、まもなく会長から打診を受けた日本サッカー協会が各国に先駆けて招致に名乗りをあげました。日本は、低迷する国内サッカー界の活性化も念頭に入れ、1998年ワールドカップの日本開催を構想し、1989年に各国に先駆け招致準備委員会を組織しました。日本はワールドカップを、より平和の祭典としてメッセージ性あるイベントにしようと提案し、トヨタカップの実績と、平和で安全、豊かな経済、政治的安定、自由と民主主義、世界の先進国である点などを示し日本で開催する意義を謳いました。また、「バーチャルスタジアム構想」(使用していないスタジアムに巨大なスクリーンを配置し3次元映像を投影。あたかも実際に目の前で選手がプレーしているように観客に観せる日本が誇る最新映像技術を駆使した仮想のスタジアム観戦システム)を提案し、史上最大の計400万人がスタジアムで観戦することが可能な大会にすることを謳いました(バーチャルスタジアム構想はその後、メガビジョンという大画面投影技術へ姿を変えました。しかし、放映権の問題があったため、実際にメガビジョンが使われたのは準決勝1試合だけでした)。 一方、FIFAが想定するアジア初のワールドカップ開催に日本が立候補すると知った韓国はアジア初をかけ1993年11月立候補を表明し1994年に招致委員会を組織しました。招致活動に出遅れた韓国は、現代財閥を中心に韓国政財界をあげての招致活動に乗り出し、南北朝鮮共同開催案を持ち出すなどして日本の招致活動に対抗しました。1995年2月、両国は正式に立候補を表明し、9月末にワールドカップ開催提案書を提出します。結局、日韓以外の立候補はなく、アジア2カ国だけが正式に立候補しました。 開催国は当初、1996年6月1日のFIFA臨時理事会で会長、副会長を含む理事21人の投票によって決定される予定でした。しかし、時期を同じくしてFIFA会長選挙を控え、一貫して日本を推していたFIFAのアベランジェ会長の会長派と、欧州FIFA理事派の勢力が、次期会長職を巡って対立し始めます。アベランジェ会長の会長続投を阻止しようと反会長派の欧州理事たちは、日韓の共同開催を強く推進、南米の会長派は日本単独開催を支持し、アフリカ理事らの動向が投票を左右することとなりました。こうした状況の中、日韓共催案がいよいよ現実味を帯び始めたのです。 直前になって欧州理事らが、欧州リーグに選手を受け入れてもらう立場にあるアフリカ理事の票を押え多数派となりました。開催国を決定する投票日前日の定例理事会前のパーティー会場で、アフリカ理事らとの歓談から、趨勢を悟ったアベランジェ会長は、定例理事会で日韓両国による共同開催案を自ら提案、満場一致の拍手の賛成決議で定例理事会は幕を閉じたのです。 結局、投票を待たずして、1996年5月30日FIFA理事会は、「ワールドカップは単独開催」という規則を無視し、FIFA事務局長のジョセフ・ゼップ・ブラッターの名で、ホテルで投票を待つ日本招致委員会に対し日韓共催を打診する文書を送りました。欧州アフリカ理事らの動向を掴めなかった日本はまさかの共同開催決定に涙をのんで受け入れを表明。翌日の5月31日、FIFA、日本、韓国による共同開催決定の会見が開かれました。 日本が受け入れを拒否した場合は、韓国の単独開催か、開催地決定の延長と中国開催の可能性があったのです。しかし、韓国は経済危機で財政的に韓国単独開催が無理な状況であり、実際は共催による開催しか選択の余地が無かったのです。共催による政治決着で日本政府からの融資により韓国のスタジアム建設が行われたのです。決着はアベランジェ会長・南米派と反会長・欧州派のFIFA内部の政治的対立の産物でもありました。アベランジェ会長は名誉ある退席を選んだのです。程なく会長職を引退しました。 ■大会呼称問題 大会の呼称は当初、アルファベット順で「2002 FIFA World Cup Japan/Korea」とする予定でしたが、韓国の反対で、決勝戦を日本で行うこととなった代わりという意味もあり、1996年に「2002 FIFA World Cup Korea/Japan」で決定しました。 日本語の表記は、当初「自国語の表記は自由」との合意がとれていた(日本の主張による)ということで「2002 FIFAワールドカップ日本・韓国」と表記していました。しかし2000年4月、FIFAは「2002年FIFAワールドカップ・コリア・ジャパン」と表記することを求めてきたが、日本はこれを拒否。更にその後韓国が「日本・韓国」と表記するのは正式名称 (Korea/Japan) と異なり、合意に背くとして抗議。この抗議はワールドカップ組織委員会に認められ、「韓国・日本」と表記しなければならなくなりました。但し、国名部分を省略し、「2002 FIFAワールドカップ」と表記することも認められたので、これ以降日本国内では国名省略で統一されることになりました。 また、これはあくまでも正式名称の問題であるために、日本では多くの場所で「ワールドカップ日本/韓国」という表記も見ることができました。 大会期間中に韓国内では「2002 FIFA World Cup Corea」と看板に表記していました。"Corea"としたのはアルファベット順だとKがJの後ろであり、それすらも拒否するためです。 日本には表記について再三抗議をしておきながら、自らは何の詫びれもなく単独表記を行うという韓国の非常識さが表れています。 ■予選大会 本大会に出場できるのは32カ国で、各地域の出場国の配分は、アジア:2.5、アフリカ:5、北中米カリブ海:3、南米:4.5、オセアニア:0.5、ヨーロッパ:13.5でした。これに、予選を免除された、前回フランス大会優勝国のフランスと開催国の日本、韓国が加わります。 南米予選では過去最多の優勝を誇るブラジルが予選でなかなか本来の力が発揮できずに苦しむものの、終わってみれば過去の優勝国が勢揃いしたように、順当な結果が多かったのです。ただ、死のグループに入っていたとはいえ、オランダが予選落ちしたのが最大の波乱とされます。大の飛行機嫌いで知られるデニス・ベルカンプが早々に代表から引退した影響がなかったとはいえません。 本大会前には、ロベルト・バッジョ、ロマーリオらが代表に選ばれなかったことが話題となりました。 ■本大会 ソウルで行われた開幕戦では、前回優勝国のフランスが初出場のセネガルと対戦。この試合でセネガルが1-0で勝利し、波乱の大会の幕開けとなりました。結局、フランスは事前の親善試合で負傷したジダンの抜けた穴を埋めることができず、ティエリ・アンリ、ダビド・トレゼゲ、ジブリル・シセと3ヶ国の得点王を擁しながら予選リーグで1得点もあげられずに敗退しました。 アルゼンチン、ナイジェリア、スウェーデン、イングランドが集まり「死のグループ」とよばれたグループFでは、両国の歴史的背景や前回大会の遺恨から「因縁の対決」と言われているアルゼンチン対イングランド戦が日本の札幌会場の札幌ドームで実現して大きく注目されました。優勝候補と目されていたアルゼンチンが予選リーグで敗退するという波乱があったのです。 開催国の日本は、初戦でベルギーと2-2で引き分け、ワールドカップで初の勝ち点を獲得すると、次戦のロシア戦に1-0で勝ち、ワールドカップ初勝利を挙げました。そして、次のチュニジア戦も2-0で勝利し、予選1位通過で、初の決勝トーナメント(ベスト16)進出も決めたのです。 もう一つの開催国の韓国もまた、ポーランドなどから初勝利をあげ、第1ラウンドを1位で通過しました。また優勝候補のポルトガルが第1ラウンドで敗退するという波乱もありました。 次回開催が決まっているドイツは、世界一のGKと評されたカーンや、新星FWクローゼの活躍などで初戦で8-0の大勝を収めるなどして決勝まで進出しました。 第2ラウンドでは、イタリア・スペインに勝利し韓国の快進撃が目を引きました。アジア勢として初の準決勝に進出しました。この快進撃に、韓国中が熱狂しました。日本は、1回戦でトルコと対戦し0-1で敗れ、初のベスト8進出はなりませんでした。横浜国際総合競技場で行われた決勝は、前評判が決して高いとは言えなかったドイツとブラジルの戦いとなりました。優勝回数1位と2位の国同士であるにもかかわらずワールドカップでは初対戦で、注目を集めました。この試合を2-0で勝利したブラジルが5度目の優勝に輝いたのです。大会の得点王はブラジル代表フォワードのロナウド(8ゴール)。最優秀選手は負けたドイツのオリバー・カーンが受賞。 ■チケット問題 前回大会の反省を活かして、チケット販売はバイロム社が一元管理し、チケットを記名式にすることで、闇売買を防ぐ仕組みを導入しました。しかし、日本ではチケット人気が沸騰し、オークションで高額で売買される事態が生じました。また、インターネット上のチケット販売サイトはアクセスが集中し、購入できない状態が続いたのです。こうした状況にもかかわらず、実際の試合では大量の空席が存在し、バイロム社の責任問題となりました。反面、韓国では、日本と同じ価格ながら韓国人にはチケットの定価が高額すぎたために、大量にチケットが売れ残り、決勝トーナメントですら空席が大量に発生したため、政府が学生を動員して空席を埋める事態となりました。これ以外にも、バイロム社の販売能力が低いことが原因で、チケットが試合直前まで到着しない事態が発生しました。 結果的に、前回大会同様、チケット問題には頭を悩ませることとなったのです。この件に関しては、大会後、FIFAが日本と韓国に1億円ずつ慰謝料を支払うことで決着しました。 ■誤審問題 本大会では誤審問題が大きく取り沙汰されました。特に韓国vsポルトガル戦(ポルトガル代表へのカードの多発)、韓国対イタリア戦(イタリア代表へのカードの多発)、韓国対スペイン戦(取り消されたスペインの2ゴール)は、歴史に残る疑惑と物議を醸しました。 韓国の相手国はいずれも上位進出候補の強豪で、ホスト国の韓国チームに対し意図的に有利な判定が行われたのではないかとの疑惑が広まり、事態の沈静化を図ったFIFAが、大会中に異例の声明を出すほどでした。 そしてFIFAは急遽、これまでの『異なる大陸から審判を起用する慣例』を変えて、準決勝以降の試合は全てヨーロッパの審判で固めたのです。 インターネット上の掲示板等ではポルトガル戦直後からこれらが大きな話題になり、韓国が審判を買収したのではないかという疑惑まで駆け巡りました。 この歴史上類を見ない誤審問題にも関わらずメディアでの扱いが不十分との批判もなされ、大会終了後にようやくこの誤審問題が新聞・テレビ等で大きく取り上げられるようになりました。この余りの疑惑の判定続きに、インターネットで呼びかけられて集まった1000人もの日本人が、準決勝のドイツ対韓国戦で試合が同時中継されている国立競技場で、公平な判定を求めてドイツチームの応援をする出来事まで起きました。この誤審問題の他にも、韓国人サポーターの、ホスト国としてはあるまじきゲスト国への余りの侮辱的な行為が世界で顰蹙を買ったのです。 その後、FIFAが創立100周年記念の特別限定版として製作したDVD『FIFA FEVER』(日本語版未発売)ではワールドカップ100年の歴史の『10大誤審疑惑』も選定されましたが、この十大誤審の中には上記の「韓国対スペイン戦からホアキンのセンタリングがラインを割ったという判定、モリエンテスのゴールをファールとした判定」、「韓国対イタリア戦からトッティのシミュレーション判定、イタリア側の決勝点チャンスの際のオフサイド判定」と以上4つもの誤審がランクに入りました。この大会の韓国絡みの誤審がランク内で最多であったことはもちろんとして、3位に入ったブラジル対ベルギー戦のベルギー先制点取り消しも含めると、一つの大会からの誤審が半分を占めることになり、本大会のジャッジに問題があった事を端的に示しています。 しかし、過去のワールドカップでも開催国が相手側に与えられた筈のフリーキックを間違えて蹴ったのがゴールとして認められたり、一度は失敗したPKを不可解な理由で再度やり直させて貰えるなどの論外クラスの判定が数多くあったのも事実であり、まだ人によって意見の分かれる余地のあるトッティのシミュレーション判定やトンマージのオフサイド判定をここまで上位に入れたのは、本当のランキングという観点では妥当とは言えない事も確かです。FIFAが事態の収拾をはかったり、強豪国の顔色をうがかったという側面もあるでしょう。だが、いずれにしても審判の判定で不可解な部分が多々有り、それが全てとは言いませんが、韓国チームに有利に働いたのは事実なのです。 それにも関わらず恐らく今大会が誤審大会としてこれから長く批判され続けることになるのは、最悪レベルの大会であったファシスト下のイタリア大会や軍事政権下のアルゼンチン大会の記憶も世界から薄れ、また情報化社会の到来でより多くの人にワールドカップというイベントが認知されるようになったからだと推測できます。 なお、韓国対イタリア戦の主審であったバイロン・モレノは、その後の母国で市議選に出馬しました。その際にエクアドル・リーグの試合で出馬した市に所属するチームが負けている状態で12分ものロスタイムを取ったことが原因でエクアドルの審判資格を停止されています。また、その後に詳しい理由は不明ですがFIFAから国際審判資格を剥奪され、エクアドルサッカー協会もなんら抗議をしませんでした。審判業をも廃業を余儀なくされているのです。 (ウキィペディア百科事典調べ) ![]() ![]() 2002FIFAワールドカップ記念10.000円金貨(プルーフセット) 図案 表:選手とストライプ 裏:エンブレムと桜と虹とボール 発行日 平成14年5月8日 直径 26.0mm 品位 金1.000 量目 15.6g 発行数 100.000枚 ![]() ![]() 2002FIFAワールドカップ記念1.000円銀貨(プルーフセット) 図案 表:トロフィと桜とムクゲ 裏:エンブレムと選手 発行日 平成14年5月14日(2002年) 直径 40.00mm 品位 銀1.000 量目 31.1g 発行枚数 100.000枚 ![]() ![]() 2002FIFAワールドカップ記念500円ニッケル黄銅貨(ユーラシア、アフリカ) 図案 表:ユーラシア、アフリカ地図と選手 裏:エンブレムと試合時間 発行日 平成14年5月27日(2002年) 直径 26.05mm 品位 銅720/亜鉛200/ニッケル80 量目 7.00g 発行枚数 10.000.000枚 ![]() ![]() 2002FIFAワールドカップ記念500円黄銅貨(アジア、オセアニア) 図案 表:アジア、オセアニア地図と選手 裏:エンブレムと試合時間 発行日 平成14年5月27日(2002年) 直径 26.05mm 品位 銅720/亜鉛200/ニッケル80 量目 7.00g 発行枚数 10.000.000枚 ![]() ![]() 2002FIFAワールドカップ記念500円黄銅貨(南北アメリカ) 図案 表:南北アメリカ地図と選手 裏:エンブレムと試合時間 発行日 平成14年5月27日(2002年) 直径 26.05mm 品位 銅720/亜鉛200/ニッケル80 量目 7.00g 発行枚数 10.000.000枚
平成11年に天皇陛下が即位されてから10年になるのを記念した貨幣が発行されました。
「天皇陛下御在位10年記念10.000円金貨」「同500円白銅貨」です。 ![]() ![]() 天皇陛下御在位10年記念10.000円金貨(プルーフセット) 図案 表:鳳凰と桐と白樺 裏:菊紋と橘と桜 発行日 平成11年12月(1999年) 直径 28.00mm 品位 金1.000 量目 20.0g 発行枚数 200.000枚 ![]() ![]() 天皇陛下御在位10年記念500円白銅貨(プルーフセット) 図案 表:富士山と菊 裏:菊紋と橘と桜 発行日 平成11年12月 直径 26.50mm 品位 銅750/ニッケル250 量目 7.2g 発行枚数 100.000枚(金貨・銅貨二枚セットのプルーフのみ) ![]() ![]() 天皇陛下御在位10年記念500円白銅貨 図案 表:富士山と菊 裏:菊紋と橘と桜 発行日 平成11年12月 直径 26.50mm 品位 銅750/ニッケル250 量目 7.2g 発行枚数 15.000.000枚
平成10年に長野で冬季オリンピックが開催されました。開催を記念して記念貨幣が発行されました。「長野オリンピック冬季競技大会記念10.000円金貨」「同5.000円銀貨」「同500円白銅貨」です。
長野オリンピック(ながのオリンピック、XVIII Olympic Winter Games)は、1998年2月7日から2月22日まで日本の長野市とその周辺で開催された20世紀最後の冬季オリンピックです。冬のオリンピック開催地に限定すれば最も南で開催された都市として話題を呼びました。日本ジャンプ陣(日の丸飛行隊)が札幌オリンピックに続き活躍した大会でもありました。閉会式の司会はコメディアンの萩本欽一さんが担当しました。 1991年にイギリス・バーミンガムで行われたIOC総会でアオスタ・ハカ・エステルスンド・ソルトレークシティを破り、開催地に選ばれたのが長野です。 ■開会式 長野オリンピックの開会式は、2月7日午前11時から長野オリンピックスタジアムで行われました。総合演出は劇団四季の浅利慶太氏が担当。善光寺の鐘の音を合図にスタートしました。御柱の建御柱、大相撲の土俵入り、横綱曙の土俵入りが行われ、歌手森山良子さんと子供たちが共演しました。 選手入場はギリシャを先頭にアルファベット順に行われました。入場の最後の日本選手団は、県民歌「信濃の国」に合わせて入場しました。斉藤英四郎大会組織委員会会長の挨拶、サマランチIOC会長の挨拶の後、天皇陛下が開会を宣言。オリンピック旗の入場では、往年の冬季オリンピックの名選手8人が登場しました。雅楽による国歌演奏の後、クリス・ムーンと子供たちが聖火を持って入場。その後千葉真子さん、アルベールヴィル・リレハンメルノルディック複合の金メダリスト・河野孝典氏、阿部雅司氏、三ヶ田礼一氏、アテネ世界陸上マラソン金メダリスト・鈴木博美さんに引き継ぎ、リレハンメルフィギュアスケート銀メダリスト伊藤みどりさんによって聖火が点火されました。 開会式のクライマックスは、長野県県民文化会館と世界5大陸(北京・ベルリン・ケープタウン・ニューヨーク・シドニー)から、衛星中継によるベートーヴェンの交響曲第9番「合唱付き」第4楽章の演奏・合唱でした。指揮は世界的な名指揮者・小澤征爾氏が行いました。 さらに演奏終了にあわせ航空自衛隊のブルーインパルスが会場上空で展示飛行を行い、開会式に花を添えました。 ■日本選手のおもな成績 ☆金メダル 里谷多英選手(フリースタイルスキー女子モーグル) 船木和喜選手(ノルディックスキージャンプラージヒル個人) 岡部孝信選手、斎藤浩哉選手、原田雅彦選手、船木和喜選手(ノルディックスキージャンプ団体)(これで日本は、夏季・冬季オリンピック通算100個目の金メダルを獲得) 清水宏保選手(スピードスケート男子500メートル) 、 西谷岳文選手(ショートトラックスピードスケート男子500メートル) ☆銀メダル 船木和喜選手(ノルディックスキージャンプノーマルヒル個人) ☆銅メダル 原田雅彦選手(ノルディックスキージャンプラージヒル個人) 清水宏保選手(スピードスケート男子1000メートル) 岡崎朋美選手(スピードスケート女子500メートル) 植松仁選手(ショートトラックスピードスケート男子500メートル) ■おもな競技内容 ☆アルペンスキー 男子滑降が行われる予定だった大会二日目から、悪天候が続き、競技日程が大幅に変更され、大会10日目の16日には、男子スーパー大回転、女子滑降、女子複合滑降の3レースが同日実施されるという強行日程もとられました。 五日遅れで開催された男子滑降では、出場45人中15人が失格・途中棄権となり、うち14人がコース上の同じポイントで失敗をしています。スタート地点問題でコースが一部変更になったことに伴いできたポイントでした。この場所で、このシーズンのワールドカップ総合一位を独走していたヘルマン・マイヤーが大転倒をし、アルペンスキーを見慣れない日本の観衆に大きな衝撃を与えましたが、マイヤーはその3日後に行われたスーパー大回転で優勝、さらに大回転でも優勝し、この大会の象徴的選手の1人となりました。 ☆ノルディックスキー ジャンプ競技は、日本勢がシーズン当初から好調で、大会前から札幌オリンピックの日の丸飛行隊の再現が大きく期待されました。結果、金2個、銀1個、銅1個と大活躍しました。クロスカントリー男子15kmクラシカルにはアフリカはケニアから出場し、最下位ながらも見事完走を果たしたフィリップ・ボイトを優勝したノルウェーのビョルン・ダーリがゴール地点で出迎えて健闘をたたえる感動的な一幕がありました。 ☆スノーボード スノーボードは、大回転とハーフパイプの2種目がこの大会から正式種目として採用されました。最初のレースとなった男子大回転で、ロス・レバグリアティが最初、オリンピックチャンピオンになりました。レバグリアティは競技終了後、ドーピング検査でマリファナの陽性反応が出たために、一旦はメダル剥奪が決定されたのですが、CASの裁定により処分は取り消されました。 ☆スピードスケート プレシーズンにスラップスケートが登場し、多くの選手がスケート靴を変えての大会となりました。スラップスケートが特に威力を発揮すると言われた長距離種目では、エムウェーブの高速リンクと相まって、世界新記録が連発しました。大会2日目に行われた男子5000メートルでは、メダリスト3選手全員が従来の世界記録を上回り、大会開幕を告げるレースとして十分な内容の展開となりました。 ☆フィギュアスケート この年、女子のフィギュアスケート界は2人のアメリカの選手が注目されました。多様なジャンプとスピンを武器に14歳で全米選手権を制したタラ・リピンスキーと、柔らかく表現力豊かな演技をする17歳のミッシェル・クワン。二人の対決はしばし「剛と柔」と表現され、この大会においても金メダルを争い、リピンスキーがナガノのヒロインとなりました。 ☆アイスホッケー この大会からプロ選手の参加が認められ、北米アイスホッケーリーグ(NHL)所属の選手を数多く擁した6カ国がシードされました。その中でもアメリカとカナダが大きく注目され、両国の優勝争いとなると見られていましたが、いずれも決勝に進めないという大波乱の展開となりました。金メダルを獲得したのが、NHLのスター選手中心ではあったのですが、選手の半数は国内リーグや欧州諸国リーグ所属の選手だったチェコ共和国であったのは皮肉でした。 ■閉会式 閉会式は、2月22日午後6時から長野オリンピックスタジアムに天皇・皇后両陛下を迎えて行われました。 主な内容としては、長野のお祭りが一堂に集結したほか、オリンピック旗がソルトレークシティ市長に引き継がれました。大会組織委員会副会長吉村午良長野県知事(当時)の挨拶の後、サマランチIOC会長の閉会宣言が、「アリガトウナガノ、サヨナラニッポン」と日本語で締めくくられました。聖火の納火の後、歌手の杏里さんと子供たちが会場と全員で「ふるさと」を合唱し、司会の萩本欽一さんが「私たちのふるさとは?」と問いかけると、会場は「地球!!」と叫んだのです。フィナーレは、花火5000発と「WAになっておどろう~イレアイエ~」で締めくくられました。 また、テレビの独占生中継をした日本テレビでは、30.8%の高視聴率をマークしました。 ![]() ![]() 長野オリンピック冬季競技大会記念10.000円金貨(第1次)(プルーフセット) 図案 表;ジャンプ 裏:りんどう(長野県の県花) 発行日 平成9年2月(1997年) 直径 26.0mm 品位 金1.000 量目 15.6g 発行枚数 55.000枚 ![]() ![]() 長野オリンピック冬季競技大会記念5.000円銀貨(第一次)(プルーフセット) 図案 表:アイスホッケー 裏:かもしか(長野県の県獣) 発行日 平成9年2月 直径 30mm 品位 銀925/銅75 量目 15g 発行枚数 133.000枚 ![]() ![]() 長野オリンピック冬季競技大会記念5.000円銀貨(第1次) 図案 表:アイスホッケー 裏:かもしか(長野県の県獣) 発行日 平成9年2月 直径 30mm 品位 銀925/銅75 量目 15g 発行枚数 5.000.000枚 ![]() ![]() 長野オリンピック冬季競技大会記念500円白銅貨(第1次)(プルーフセット) 図案 表:スノーボード 裏:雷鳥(長野県の県鳥) 発行日 平成9年2月 直径 26.5mm 品位 銅750/ニッケル250 量目 7.2g 発行枚数 133.000枚 ![]() ![]() 長野オリンピック冬季競技大会記念500円白銅貨(第1次) 図案 表:スノーボード 裏:雷鳥(長野県の県鳥) 発行日 平成9年2月 直径 26.5mm 品位 銅750/ニッケル250 量目 7.2g 発行枚数 20.000.000枚 ![]() ![]() 長野オリンピック冬季競技大会記念10.000円金貨(第2次)(プルーフセット) 図案 表:フィギュアスケート 裏:りんどう(長野県の県花) 発行日 平成9年8月(1997年) 直径 26.0mm 品位 金1.000 量目 15.6g 発行枚数 55.000枚 ![]() ![]() 長野オリンピック冬季競技大会記念5.000円銀貨(第2次)(プルーフセット) 図案 表:バイアスロン 裏:かもしか(長野県の県獣) 発行日 平成9年8月(1997年) 直径 30mm 品位 銀925/銅75 量目 15g 発行枚数 133.000枚 ![]() ![]() 長野オリンピック冬季競技大会記念5.000円銀貨(第2次) 図案 表:バイアスロン 裏:かもしか(長野県の県獣) 発行日 平成9年8月7日(1997年) 直径 30mm 品位 銀925/銅75 量目 15g 発行枚数 5.000.000枚 ![]() ![]() 長野オリンピック冬季競技大会記念500円白銅貨(第2次)(プルーフセット) 図案 表:ボブスレー 裏:雷鳥(長野県の県鳥) 発行日 平成9年8月 直径 26.5mm 品位 銅750/ニッケル250 量目 7.2g 発行枚数 133.000枚 ![]() ![]() 長野オリンピック冬季競技大会記念500円白銅貨(第2次) 図案 表:ボブスレー 裏:雷鳥(長野県の県鳥) 発行日 平成9年8月 直径 26.5mm 品位 銅750/ニッケル250 量目 7.2g 発行枚数 20.000.000枚 ![]() ![]() 長野オリンピック冬季競技大会記念10.000円金貨(第3次)(プルーフセット) 図案 表:スピードスケート 裏・りんどう(長野県の県花) 発行日 平成10年2月(1998年) 直径 26.0mm 品位 金1.000 量目 15.6g 発行枚数 55.000枚 ![]() ![]() 長野オリンピック冬季競技大会記念5.000円銀貨(第3次)(プルーフセット) 図案 表:パラリンピック滑降 裏:かもしか(長野県の県獣) 発行日 平成10年2月(1998年) 直径 30mm 品位 銀925/銅75 量目 15g 発行枚数 133.000枚 ![]() ![]() 長野オリンピック冬季競技大会記念5.000円銀貨(第3次) 図案 表:パラリンピック滑降 裏:かもしか(長野県の県獣) 発行日 平成10年2月(1998年) 直径 30mm 品位 銀925/銅75 量目 15g 発行枚数 5.000.000枚 ![]() ![]() 長野オリンピック冬季競技大会記念500円白銅貨(第3次)(プルーフセット) 図案 表:フリースタイル 裏:雷鳥(長野県の県鳥) 発行日 平成10年2月 直径 26.5mm 品位 銅750/ニッケル250 量目 7.2g 発行枚数 133.000枚 ![]() ![]() 長野オリンピック冬季競技大会記念500円白銅貨(第3次) 図案 表:フリースタイル 裏:雷鳥(長野県の県鳥) 発行日 平成10年2月 直径 26.5mm 品位 銅750/ニッケル250 量目 7.2g 発行枚数 20.000.000枚
平成6年に日本の広島で第12回アジア競技大会が開催されました。開催を記念して三種類の記念貨幣が発行されました。「第12回アジア競技大会記念500円白銅貨」です。
アジア競技大会(あじあきょうぎたいかい Asian Games)は、第2次世界大戦後、インドの提唱により、アジアの国々のための総合競技大会を開催することになりました。 アジアオリンピック評議会(OCA)加盟各国のスポーツ文化高揚を目標に1951年、インドのニューデリー市で第一回が開催されました。以降基本的に夏季オリンピックの中間年に開催しています。また、アジア冬季競技大会が1986年から行われ、第一回大会は、札幌で開催されました。2003年2月には青森で第五回大会が行われました。 最多開催国はタイで過去4回に渡りすべてバンコク市で開かれています。翌年度に集中する夏季オリンピック選考の重要な前哨戦ともいわれています。 アジア競技大会開催地 回 期間 開催都市 開催国 参加国 参加選手 競技数 1 1951年 3月4日-3月11日 ニューデリー インド 11 約500 6 2 1954年 5月1日-5月9日 マニラ フィリピン 18 1241 8 3 1958年 5月24日-6月1日 東京 日本 20 1692 13 4 1962年 8月24日-9月4日 ジャカルタ インドネシア17 1527 14 5 1966年 12月9日-12月20日 バンコク タイ 18 約2000 14 6 1970年 12月9日-12月20日 バンコク タイ 18 1802 13 7 1974年 9月1日-9月15日 テヘラン イラン 25 2672 16 8 1978年 12月9日-12月20日 バンコク タイ 27 2876 19 9 1982年 11月19日-12月4日 ニューデリー インド 33 4635 20 10 1986年 9月20日-10月5日 ソウル 韓国 27 4786 25 11 1990年 9月22日-10月7日 北京 中国 37 6122 27 12 1994年 10月2日-10月16日 広島 日本 43 6828 34 13 1998年 12月6日-12月20日 バンコク タイ 41 9780 36 14 2002年 9月29日-10月14日 釜山 韓国 44 約9900 38 15 2006年12月1日-12月15日 ドーハ カタール 16 2010年11月12日-11月27日 広州 中国 ![]() 第12回アジア競技大会記念500円白銅貨(走る)(プルーフセット) 図案 走る 発行日 平成6年9月27日 直径 26.5mm 品位 銅750/ニッケル250 量目 7.2g 発行枚数 100.000枚 ![]() ![]() 第12回アジア競技大会記念500円白銅貨(走る) 図案 走る 発行日 平成6年9月27日 直径 26.5mm 品位 銅750/ニッケル250 量目 7.2g 発行枚数 10.000.000枚 ![]() 第12回アジア競技大会記念500円白銅貨(泳ぐ)(プルーフセット) 図案 泳ぐ 発行日 平成6年9月27日 直径 26.5mm 品位 銅750/ニッケル250 量目 7.2g 発行枚数 100.000枚 ![]() ![]() 第12回アジア競技大会記念500円白銅貨(泳ぐ) 図案 泳ぐ 発行日 平成6年9月27日 直径 26.5mm 品位 銅750/ニッケル250 量目 7.2g 発行枚数 10.000.000枚 ![]() 第12回アジア競技大会記念500円白銅貨(跳ぶ)(プルーフセット) 図案 跳ぶ 発行日 平成6年9月27日 直径 26.5mm 品位 銅750/ニッケル250 量目 7.2g 発行枚数 100.000枚 ![]() ![]() 第12回アジア競技大会記念500円白銅貨(跳ぶ) 図案 走る 発行日 平成6年9月27日 直径 26.5mm 品位 銅750/ニッケル250 量目 7.2g 発行枚数 10.000.000枚
平成6年に関西国際空港が開港されたのを記念に記念貨幣が発行されました。
「関西国際空港開港記念500円白銅貨」です。 関西国際空港(かんさいこくさいくうこう)は大阪府南部、大阪湾内泉州沖の人工島に作られた第一種空港。世界初の本格的な海上空港です。関西空港、関空、関西新空港、泉州空港とも呼ばれます。 1994年9月4日に開港。日本の国際空港としては初めて24時間運用可能となりました(24時間運用自体は新千歳空港が最初)。当初は「近畿中央国際空港」という名称が構想され、建設中は地元で「関西新空港」「泉州空港」とも呼ばれましたが、「関西国際空港」という名称に帰しました。 空港の設置・運営は、国・地方自治体・民間の出資で設立された政府指定特殊会社「関西国際空港株式会社(Kansai International Airport,Co.,Ltd. :KIAC)」が行い、政府系特殊会社とはいえ、世界初の空港自体の設置および運用・管理を株式会社が行う国際空港なのです。 空港所在地名は泉佐野市泉州空港北・泉南郡田尻町泉州空港中・泉南市泉州空港南。 騒音問題を避ける為泉州沖合5kmに建設され、離着陸経路も陸上を極力避ける設定をしています。そのため、生活に支障がある騒音範囲は大阪湾内にほぼ収まっているのです。計画時には、環境影響評価(環境アセスメント)が重視され、周辺自治体とは協議会を設け、騒音問題や漁業への影響など十分な話し合いが行われました。その結果、開業後も特に大きな問題は起きていないようです。 空港島と直結した対岸には、空港関連施設の広大な用地りんくうタウンが広がっています。当初は、大阪府や地元泉佐野市が、買収した用地を民間企業に分譲することで収益を上げる予定でしたが、一部の処分方法を利用者側の負担の少ない定期借地権方式に切り替え、企業の進出を促した結果、企業の進出が相次ぎました。 なお、空港島北端の港湾施設は、大阪府港湾局の地方港湾泉州港であり、関西国際空港株式会社の運営ではありませんが、空港島における海上交通や航空燃料の搬入に利用されています。 関西国際空港は、大阪国際空港(伊丹空港)が市街地に存在し騒音などの公害が社会問題化しており、また国際空港であるにもかかわらず夜間の発着に対する時間規制もあったため、これらを回避するために建設されました。関西国際空港が完成した暁には大阪国際空港は廃止、もしくは小型機専用の飛行場へ転換する予定でしたが、いざ関西国際空港が完成し大阪国際空港の廃止に向けて動き出すと、多くの周辺住民は経済的な問題から廃止反対に回ることになりました。また、当時の運輸省は関西空港の離発着能力では需要をさばききれないと判断し、大阪国際空港の存続を住民側に打診した背景もあったのです。航空会社も関西空港ではドル箱路線の東京線が新幹線に対する競争力を喪失するため大阪国際空港の存続を望んだのです。 また成田空港での失敗を教訓に、騒音問題や空港への利便性を最大限に考慮して作られました。当初は神戸沖での建設が想定されていましたが、神戸市が受け入れなかったために実現せず、現在の位置に関空が設置されることとなりました。この騒音問題は当時の事情から仕方なかったとはいえ、結果的に関西空港の利用を遠ざける原因となってしまったのです。なお、現在の神戸沖には、国内線専用の地方空港として神戸空港が開港しています。 関西国際空港株式会社は、1984年10月1日、関西国際空港株式会社法により関西国際空港の設置及び管理を目的として設立されました。政府が常時二分の一以上の株式を保有する特殊会社で、政府から債務保証や資金の無利子貸付をうけています。一方、営業年度毎の事業計画や社債の募集、資金の借入については国土交通大臣の認可を要するのです。 空港や敷地内の諸施設のほか、関西国際空港連絡橋の建設・管理も事業の範囲とされており、このため空港会社は鉄道事業者(第3種)となっています。 ![]() 関西国際空港開港記念500円白銅貨(プルーフセット) 図案 関西国際空港と飛行機 発行日 平成6年8月23日(1994年) 直径 26.5mm 品位 銅750/ニッケル250 量目 7.2g 発行枚数 100.000枚 ![]() ![]() 関西国際空港開港記念500円白銅貨 図案 関西国際空港と飛行機 発行日 平成6年8月23日(1994年) 直径 26.5mm 品位 銅750/ニッケル250 量目 7.2g 発行枚数 20.000.000枚
平成5年に皇太子殿下と小和田雅子様が御結婚なされました。御成婚を記念した記念貨幣が発行されました。「皇太子殿下御成婚記念50.000円金貨」「皇太子殿下御成婚記念5.000円銀貨」「皇太子殿下御成婚記念500円白銅貨」の三種類です。
皇太子について調べてみました。 皇太子(こうたいし)は、次代の帝位・皇位を継承することが定められている者が特に当代の子にあたる場合について行われる称号であり、身位としては次代を継承することを前程として当今に準じた取扱いを受けるものなのだそうです。現在では専ら日本の天皇をめぐる制度について用いられています。 君主の地位が王である場合には王太子(女)、王太孫、王太弟などの名称を用いることが多く、皇太子およびこれに準ずる地位にかぎって王国であっても「皇太子」等用語を用いることもあり、一定しないようです。 日本の皇太子は、東宮、春宮、または、ひつぎのみこ、はるのみや、などとも言います。古代日本の朝廷では、皇位を継ぐべき皇子やまた、その資格を有する皇子に大兄とつけて大兄皇子と敬称しましたが、大兄とは皇太子とは必ずしも同義ではなく、絶対的に地位を保証する性格のものではなかったようです。 しばしば誤解されますが、かならず当今(現在の天皇のこと)の長男のことを指すとはかぎらないということです。過去の歴史のなかでは天皇たると皇帝たるとを問わず、皇太子は長幼の順を重んじつつ、本人の能力や外戚の勢力を考慮して決定され、長男であれば必ず皇太子になれるとは限らなかったのです。それゆえ、歴史上の用語(ことに前近代の場合)としては、皇太子は立太子された当今の子の謂であることに注意しなければならないのです。 当今の皇弟が次期継承者である場合は皇太弟(こうたいてい)、また当今の皇孫である場合は皇太孫(こうたいそん)と呼ばれます。次期継承者が皇女(王女)の場合も一般には皇太子ですが、皇太女と呼ばれることもあるのだそうです。 戦後1947年以降、皇室典範8条前段により、皇嗣たる皇子が皇太子とされています。皇太子の敬称は殿下です。 皇太子とされた親王が、内外に皇太子であることを宣明するために、立太子の礼という儀式が行われます。もっとも、立太子の礼が行われなくても、その親王は皇太子とされます。つまり、立太子の礼は、皇太子の身分に何か実質的な意味を付加するものではないということです。強いて言えば民間の成人式に当たる物なのでしょう。 第二次世界大戦後、立太子の礼は2回行われました。 明仁親王の立太子の礼(1952年11月10日) 徳仁親王の立太子の礼(1991年2月23日) また、皇太子は、摂政が必要となったときに、成人していれば、最初に摂政となります。なお、皇太子は、例外的に18歳で成人となります(皇室典範第22条)。 皇太弟・皇太孫 現在の日本の皇室典範には、皇太弟に関する記載はありません。皇太孫は皇室典範に記載があり、皇嗣たる皇孫(皇室典範8条後段)のこととされています。皇太子同様18歳で成人となります(皇室典範第22条)。 ■皇太子の徳仁 親王殿下について 徳仁 親王殿下(なるひと しんのう、1960年(昭和35年)2月23日 - )は、日本の皇族です。天皇(今上天皇)明仁と皇后美智子の第一王子で、皇太子。秋篠宮文仁親王殿下は弟、黒田清子様は妹。 日本赤十字社の名誉副総裁、学習院大学史料館客員研究員を務めています。印はアズサ。身位は皇太子。大勲位菊花大綬章。学位は修士(人文科学)(学習院大学)。2005年日本国際博覧会(愛知万博、愛・地球博)の協会名誉総裁も務められました。 皇位継承第1位(現皇室典範)。妃には小和田雅子様。娘に愛子内親王殿下。また、弟には秋篠宮文仁親王殿下がおられます。 命名の儀で名付けられた称号は浩宮(ひろのみや)、「徳仁」は四書五経の『中庸』を典拠として昭和天皇が命名されました。 当時皇太子妃だった母:美智子皇后は、それまでの宮殿内の御産殿で出産を行なう皇室の慣例を破って宮内庁病院にて出産されました。また乳人(めのと)制度を廃止し、自ら養育にあたりました。様々な約束事や決まりを記した「なるちゃん憲法」というものが作られています。 学習院初等科、中等科、高等科を経て学習院大学文学部史学科を卒業された後、学習院大学大学院に進学して史学(中世の交通・流通史)を専攻、在学中オックスフォード大学マートンカレッジに留学(テムズ川の水運史について研究)した期間を挟み、学習院大学大学院人文科学研究科博士前期課程を修了。 明仁の天皇即位にともない皇太子となって以来、現在にいたるまで皇位継承の順序で第1位となっています。 1986年10月19日、ファンであった歌手柏原芳恵の新宿東京厚生年金会館でのコンサートに行き話題となりました。出迎えた柏原芳恵がレコードと写真集をプレゼント。そのお礼に彼女にオレンジ色のバラを贈っています。東宮御所に咲く、エリザベス女王が母妃美智子に送った特別品種のバラ「プリンセス・ミチコ」でした。 同じ1986年、スペイン国王フアン・カルロス1世の娘・エレナ王女のためのレセプションに小和田恆とともに招かれた、恆の長女で外務公務員I種試験に合格したばかりの小和田雅子様と初対面を果たします。物怖じせず応対慣れした当時の雅子様に関心を持ち、交際がはじまりました。雅子様の母方の祖父・江頭豊が水俣病を引き起こしたチッソの社長であったことや雅子様が職業女性であることなどに対し、宮内庁や関係者が難色を示すなど、さまざまな紆余曲折が伝えられています。 のちに、皇室会議が雅子様との婚姻を承諾して内定。その翌年に婚約(いわゆる「納采の儀」)を交わし、2ヶ月弱の婚約期間ののち、雅子様との結婚を果たす(いわゆる「結婚の儀」「御成婚」)。結婚の日の当日(1993年6月9日)は、「皇太子徳仁親王の結婚の儀の行われる日を休日とする法律」が制定されて休日となりました。 趣味は登山でヴァイオリンを嗜み、オーケストラでヴィオラを演奏することもあります。 小学生の頃は巨人のファンで、巨人のユニフォームを着て野球に興じる姿を映した映像も残っています。皇居外周を突然マラソンして周囲を驚かせたこともあるようです。歳に似合わぬ老成した言動から、学生時代のあだ名は「爺」。皇太子妃・雅子様との間に1女(愛子内親王殿下)がおられます。 皇室典範では敬称を使う場合は「殿下」と定められています。報道に際しての敬称では「さま」づけが多いのです。実際には、皇太子徳仁親王、徳仁親王殿下、皇太子殿下、皇太子さまなどと呼ばれます。 2004年5月10日に王室の結婚式参列などでの欧州3ヶ国歴訪を前にした会見で口にした人格否定発言は、皇室に波紋を投じました。 話題になった発言 「これからはある程度の外国語が話せたほうが良い」「ニューヨークのティファニーに行ってあれやこれや買うような方では困る」(1985年、留学先のイギリスから帰国後の記者会見で、「どのような方を妃として望むか」という質問に対し) 「雅子さんのことは、僕が一生全力でお守りしますから」(プロポーズの言葉) 「殿下に申しあげたのは、家族でオーケストラが出来るような人数はおっしゃらないで下さいね、という事です」(婚約後の記者会見で、「子供は何人欲しいか」という質問に対し、雅子妃の答え) 「コウノトリのご機嫌にまかせて」(同じ質問に対し) 「難しいですね…」(2001年、初めて敬宮愛子内親王を抱いた感想を求められ) 「外交官としての雅子のキャリアや人格を否定するような動きがあったことも事実です」(2004年、訪欧前の記者会見で。いわゆる人格否定発言) 「親として色々考える事もある」(2006年の誕生日記者会見で、皇室典範改正問題の質問に対し。) ![]() 皇太子殿下御成婚記念50.000円金貨(プルーフセット) 図案 端鳥の鶴二羽と波 発行日 平成5年9月9日 直径 27mm 品位 金1.000 量目 18g 発行枚数 70.000枚 ![]() ![]() 皇太子殿下御成婚記念50.000円金貨 図案 端鳥の鶴二羽と波 発行日 平成5年9月9日 直径 27mm 品位 金1.000 量目 18g 発行枚数 2.000.000枚 ![]() 皇太子殿下御成婚記念5.000円銀貨(プルーフセット) 図案 端鳥の鶴二羽と端雲 発行日 平成5年6月4日 直径 30mm 品位 銀1.000 量目 15g 発行枚数 81.000枚 ![]() ![]() 皇太子殿下御成婚記念5.000円銀貨 図案 端鳥の鶴二羽と端雲 発行日 平成5年6月4日 直径 30mm 品位 銀1.000 量目 15g 発行枚数 5.000.000枚 ![]() 皇太子殿下御成婚記念500円白銅貨(プルーフセット) 図案 端鳥の鶴二羽と端雲 発行日 平成5年6月4日 直径 26.5mm 品位 銅750/ニッケル250 量目 7.2g 発行枚数 81.000枚 ![]() ![]() 皇太子殿下御成婚記念500円白銅貨 図案 端鳥の鶴二羽と端雲 発行日 平成5年6月4日 直径 26.5mm 品位 銅750/ニッケル250 量目 7.2g 発行枚数 30.000.000枚
平成4年に沖縄がアメリカから返還されて20年になるのを記念した貨幣が発行されました。
「沖縄復帰20周年記念500円白銅貨」です。 沖縄返還(おきなわへんかん)とは、1972年(昭和47年)5月15日に沖縄の施政権がアメリカ合衆国から日本に返還されたことを指します。 1951年(昭和26年)の日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)では、沖縄は潜在的な日本の主権は認めながら、アメリカ合衆国の施政権下に置かれるものとされ、1952年(昭和27年)4月28日に発効しました。そこで、アメリカは「行政主席」を行政の長とする琉球政府を置き、公選の議員で構成される立法機関「立法院」を設けるなどの、一定の自治は認めたものの、最終的な意思決定権はアメリカが握ったままだったのです。その間にも、沖縄の各地にアメリカ軍基地・施設を建設し、また、アメリカ兵による事故・事件が頻発しては、住民の死亡者も相次ぎました。この状況に対し、住民有志は「島ぐるみ闘争」といった抵抗運動を起こし、また、このころから住民は、左翼陣営も含めて日本復帰を目指して活発な祖国復帰運動を行い、1960年(昭和35)に沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)を結成しました。なお、このころの米大統領ドワイト・アイゼンハワーは、沖縄を返還する気は全く無かったようでした。 1960年代後半のベトナム戦争によって沖縄が最前線基地とされると、駐留米軍は飛躍的に増加し、これに伴って事件・事故も増加しました。また爆撃機が沖縄から直接戦地へ向かうと言うことに対し、復帰運動は反米・反戦色を強めたのです。一方、米軍による需要がある土木建築業、飲食業、風俗業などに携わる勢力は、復帰反対や米軍駐留賛成の運動を展開し、彼等の支援された議員が復帰賛成派の議員と衝突しました。1968年(昭和43年)11月には琉球政府の主席がはじめて公選され、90パーセントを超える投票率を記録しました。この選挙によって復帰協の屋良朝苗が当選、「即時無条件全面返還」を訴えたのです。 日本の佐藤栄作政権は、1970年(昭和45年)に予定される安保延長と共に、沖縄の本土復帰を緊急の外交課題としました。このため、70年安保延長反対を唱える日本社会党や日本共産党は、安保と同列の沖縄返還論に反発し、新左翼や学生運動、各種労働組合までも反安保、反返還の一大運動を日本国内で繰り広げました。しかし、これらは沖縄県民の運動とはほとんど結びつかず、県民の真意を汲み取ることにはならなかったのです。 1970年(昭和45年)12月20日未明、沖縄本島中部のコザ市(現・沖縄市)で、米軍兵士が連続して起こした二件の交通事故を契機にコザ暴動が発生しました。常日頃から米軍兵士が優遇され沖縄住民が不当に差別されたことに対するコザ市民の怒りが表面化したもので、これ以上沖縄をアメリカ軍政下に置くことは適当でないと内外に知らしめた事件でした。 1969年(昭和44年)の日米首脳会談で、アメリカ大統領リチャード・ニクソンが安保延長と引き換えに沖縄返還を約束しましたが、屋良や復帰賛成派の県民の期待とは裏腹に、米軍基地を維持したままの「72年・核抜き・本土並み」の返還が決定し、1972年(昭和47年)5月15日に日本へ復帰しました。佐藤首相はニクソン大統領との取り決めで、非核三原則の拡大解釈や核兵器持ち込みに関する秘密協定など、アメリカの利益を最大限尊重した内容でした。 また、日本政府は返還協定第7条にもとづき、特別支出金として総額3億2000万ドルをアメリカに支払いました。特別支出金の内訳は、米軍政下で設置された琉球水道公社・琉球電力公社・琉球開発金融公社のほか、那覇空港施設・琉球政府庁舎、あるいは航空保安施設、航路標識などの民生用資産の引き継ぎの代金1億7500万ドルが含まれていたのです。県民の間からは、「これらの施設・資産は無償譲渡されるべきものであって、アメリカ政府に対価を支払うのはおかしい」といった批判が噴出しましたが、日本政府は取り決めに従いこの巨額の対価を支払いました。このため、沖縄県民は「沖縄は日本政府によって金で買い取られた」という認識を強く持つようになったのです。 沖縄海洋博覧会やサミットの会場としても沖縄の活性化を政府は図りましたが税金の無駄使いと揶揄されたり、また米軍基地移転問題など難問をまだまだ抱えているのです。観光資源である海を壊すようなやり方は本土にいる私達も気になるところなのです。 ![]() 沖縄復帰20周年記念500円白銅貨(プルーフセット) ![]() ![]() 沖縄復帰20周年記念500円白銅貨
平成2年と3年に天皇陛下が御即位されたのを記念して記念貨幣が発行されました。
「天皇陛下御即位記念500円白銅貨」と「天皇陛下御即位記念100.000円金貨」です。 今上天皇 昭和天皇(裕仁)と香淳皇后(良子)の第一皇子。幼少時の称号は継宮(つぐのみや)。印は榮(えい)。宮城(現:皇居)内の産殿にて誕生しました。 当時の皇室のしきたりにより、満3歳で両親のもとを離れ、赤坂離宮(現:迎賓館)構内の東宮仮御所で東宮傅育官によって育てられました。1940年(昭和15年)、学習院初等科に入学するものの、1944年(昭和19年)には戦火の拡大により初め栃木県日光市の田母澤御用邸に、後に奥日光・湯元の南間ホテルに疎開し、当地で終戦を迎えました。終戦後帰京。1946年(昭和21年)同中等科(翌年学制切替え)に、1949年(昭和24年)同高等科に進学。この頃、1946年10月から1950年(昭和25年)12月まで、昭和天皇の「西洋の思想と習慣を学ぶ」という方針に従い、米国の著名な児童文学者にしてクエーカー教徒のエリザベス・グレイ・ヴァイニング(ヴァイニング夫人)が家庭教師として就き、その薫陶を受けられます。1952年(昭和27年)、同高等科卒業後、学習院大学政治経済学科へ進学。1956年(昭和31年)まで在籍されます。 1952年(昭和27年)11月10日に成年式を迎え、同日に立太子礼が行われました。1953年(昭和28年)にはイギリスのエリザベス2世の戴冠式に父昭和天皇の名代として参列するために初の外遊。ヨーロッパおよびアメリカを歴訪。1958年(昭和33年)11月の皇室会議にて内定していた正田美智子様と、1959年(昭和34年)4月10日に結婚。明治以降、初の旧平民出身東宮妃であったために、国民的な「ミッチー・ブーム」がおこりました。翌1960年(昭和35年)、第一皇子浩宮徳仁親王(現:皇太子)が誕生。また、1965年(昭和40年)には礼宮文仁親王(現:秋篠宮文仁親王)が、1969年(昭和44年)には紀宮清子内親王(現:黒田清子)が誕生し、三児の父となられました。1975年(昭和50年)には沖縄国際海洋博覧会に際し、皇太子としてはじめて沖縄を訪問。7月17日、皇太子妃美智子を伴いひめゆりの塔に献花のため訪れたところ、過激派から火炎瓶を投げつけられる事件(所謂ひめゆりの塔事件)が起こりました。 昭和天皇の崩御(死去)により、1989年(昭和64年)1月7日に皇位を継承。翌日、元号が平成に改められました。朝見の儀での「国民と共に日本国憲法を守り、国運の一層の進展と世界平和、人類の福祉の増進を切に希望して止みません」という発言が話題となりました。即位の礼は1990年(平成2年)11月12日に、大嘗祭は同年11月22日より二日間にわたって行われました。即位後も旺盛に国内外の訪問を行い、1991年(平成3年)にタイ、マレーシア、インドネシア、1992年(平成4年)に中国、1993年(平成5年)にイタリア、ベルギー、ドイツ、1994年(平成6年)にアメリカ、フランス、スペイン、1997年(平成9年)にブラジル、アルゼンチン、1998年(平成10年)にイギリス、デンマーク、2000年(平成12年)にオランダ、スウェーデン、2002年(平成14年)にポーランド、ハンガリー、2005年(平成17年)にサイパン島(米国領)を訪れています。その際サイパン島の韓国人戦没者の慰霊碑を参拝したことは、日本の世論及び現地の韓国系住民からは一定の評価を得た。また2003年(平成15年)までに47都道府県のすべてを訪問しています。 1999年(平成11年)に即位十周年を迎え、政府主催で在位10年記念式典(11月20日)が開催され、同日夜には二重橋で祝賀の声に応える一齣もありました。この折に、宮内庁は即位10年記録集『道』を刊行しています。 1995年(平成7年)に大腸のポリープを摘出。後、2002年(平成14年)の年末に前立腺癌であることが公表され、翌2003年(平成15年)1月18日に、前立腺の全摘出手術を行いました。 高齢にも関らず、公務、宮中祭祀ともに極めて旺盛に活動しており、天皇としての活動について非常に意欲的かつ勤勉であると伝えられます。歴代の天皇のなかでは明治天皇および特に昭和天皇に寄せる気持ちが強いようですが、皇太子時代には後水尾天皇に言及したこともあります。また即位十周年の会見で述べているように、戦中生れとして先の大戦に寄せる気持には強いものがあり、過去に「6月23日(沖縄慰霊の日)、8月6日(広島原爆忌)、8月9日(長崎原爆忌)、8月15日(終戦記念日)の四つは忘れる事の出来ない日付である」旨の発言もしています。 ハゼの分類学的研究者であり、日本魚類学会に属して28編の論文を同学会誌に発表しています。2000年には海外誌「Gene」に第一著者として論文が掲載されています。また1992年には「Science」誌に「Early cultivators of science in Japan」という題の寄稿をしています。魚類学における業績によって、1980年(昭和55年)にロンドン・リンネ協会外国会員、1986年(昭和61年)には同協会名誉会員となったほか、オーストラリア博物館リサーチ・アソシエート、ロンドン動物学会名誉会員、アルゼンチン自然科学研究所永久名誉会員などでもあります。1998年(平成10年)にはロンドン王立協会(ロイヤル・ソサエティ)からチャールズ2世メダルを受賞しています。 清水勝雄に師事してチェロをたしなむほか、テニスをよくされます(これは皇后と知合うきっかけにもなりました。いわゆる「テニスコートの恋」です)。1992年(平成4年)にジョージ・ブッシュ大統領が来日した際には、皇太子徳仁親王とペアを組んで、ブッシュ大統領とマイケル・アマコスト駐日大使と対戦し、2ゲームに全勝しました。 皇太子時代のエピソード 学生時代学友に、「銀座にいきたい」と相談し、学友が「いつがいいか?」と尋ねると「今日がいい」と答えました。「一人ではなくもう一人つれていこう」と提案し、承諾。仕えている周りの人間を騙し、抜け出すことに成功し、3人で銀座をぶらつきました。ぶらついている最中に同級生と出会い、同級生は「殿下こんばんは」と挨拶したといいます。電車にのったり、喫茶店へ行ったり、満喫したようですが、当然ながらすぐに事件は発覚。大騒ぎになり、目的地を知り居場所を突き止められると、銀座にいた彼の周りに警官が20~30メートルおきに配置されてしまい、これ以上散策が出来なくなり終了しました。もちろん、連れ出した学友2名が警察と皇室関係者に烈火のごとく叱られたのは言うまでもありません。 ![]() ![]() 天皇陛下御即位記念100.000円金貨 図案 鳳凰と端雲 発行日 平成3年4月10日 直径 33mm 品位 金1.000 量目 30g 発行枚数 2.000.000枚 ![]() ![]() 天皇陛下御即位記念500円白銅貨 図案 特別御料儀装車 発行日 平成2年11月8日 直径 30mm 品位 銅750/ニッケル250 量目 13g 発行枚数 30.000.000枚
平成2年に明治政府が設立されて議会を開設してから100年にあたり、これを記念した貨幣が発行されました。「議会開設100周年記念5.000円銀貨」です。
議会(ぎかい)とは、一般的には審議・議決を経て法律を制定する(立法)集会・会議です。その場所あるいは組織を指します。立法府とも呼ばれます。また、議会を構成する単位たる合議体を議院と呼びます(両院制)。日本においては、国の議会は特に国会と言い、地方自治体では議会と呼ばれます。 日本での国会は衆議院と参議院の議院内閣制となっており、「議会」が行政府の長を選び、また辞めさせる権限を持ちます。「議会」が行政機関である「政府」と相互関係にある制度なのです。 ![]() ![]() 議会開設100周年記念5.000円銀貨 図案 国会議事堂 発行日 昭和2年11月21日 直径 30mm 品位 銀925/銅75 量目 15g 発行枚数 5.000.000枚
平成2年は日本が明治以来の裁判所制度が開設されてから100年にあたるのを記念して記念貨幣が発行されました。「裁判所制度100周年記念5.000円銀貨」です。
裁判所(さいばんしょ)とは、司法権を行使する機関をいいます。講学上は、「国法上の裁判所」「裁判機関としての裁判所」「裁判所という名の官署・施設」とが区別されます。日本では、1890年に公布された裁判所構成法(明治23年法律第6号)から、「裁判所」が一般的な呼称になりました。それ以前の同様の裁判機関は、時代により様々に異なる呼称を持ちます。 日本では最高裁判所、高等裁判所、地方裁判所 、簡易裁判所 、家庭裁判所 などがあり、他には国際上に国際司法裁判所 、国際刑事裁判所 、スポーツ仲裁裁判所 などがあります。 ![]() ![]() 裁判所制度100周年記念5.000円銀貨 図案 最高裁大法廷 発行日 平成2年10月23日 直径 30mm 品位 銀925/銅75 量目 15g 発行枚数 5.000.000枚
平成2年に大阪府大阪市で国際花と緑の博覧会が開催されたのを記念して記念貨幣が発行されました。「国際花と緑の博覧会記念5.000円銀貨」です。
国際花と緑の博覧会(こくさいはなとみどりのはくらんかい The International Garden and Greenery Exposition,Osaka,Japan,1990)は、大阪府大阪市の鶴見緑地で、183日間の会期(1990年4月1日 - 9月30日)で行われた国際博覧会(会場面積は約105ha)です。略称は「花の万博」「EXPO'90」。最近では、他の花博と区別するために、「大阪花博」と称する事も多いです。「花と緑と人間生活のかかわりをとらえ 21世紀へ向けて潤いのある豊かな社会の創造をめざす」をテーマとし、日本を含む83カ国と55の国際機関、212企業・団体が参加しました。総入場者数は約2312万人。マスコットは、花ずきんちゃん。 元々は、当時の博覧会ブームに乗って、大阪市市制100周年事業として、国際博覧会ではなく国内博覧会レベルとして開催する方向で進められていました。だが、その後、国の政策とも合致し国際博覧会として進められました。準備段階では鉄ひえと言われ、民間活力導入を条件に閣議了解がなされ、その後バブル期という事もあり、民間企業からの寄付金総額は、国内で開催された国際博覧会史上最高となりました。 花博といえば、この大阪の花博の後に淡路花博(国際園芸・造園博「ジャパンフローラ2000」)と浜名湖花博(静岡国際園芸博覧会 浜名湖花博)が開催されましたが、違いは、大阪の花博(国際花と緑の博覧会)は、オランダのハーグ市国際園芸家協会(AIPH)の認定した大国際園芸博覧会A1(A1=会期6ケ月以内・海外参加可)で国際博覧会条約に基づく国際博覧会事務局(BIE)に登録、または認定された国際博覧会であるのに対し、淡路花博と浜名湖花博はAIPHの園芸博覧会A2+B1(A2=会期3週間以内・海外参加可、B1=会期6ケ月以内の国内博)ということです。 会場へのアクセス手段として、日本初の鉄輪式リニアモーターミニ地下鉄である大阪市営地下鉄鶴見緑地線(現在の長堀鶴見緑地線)が建設されました。 ![]() 国際花と緑の博覧会会場夜景 ![]() 花ずきんちゃん ![]() ![]() 国際花と緑の博覧会記念5.000円銀貨 図案 花の冠をつけた少女 発行日 平成2年4月1日 直径 30mm 品位 銀925/銅75 量目 15g 発行枚数 10.000.000枚
昭和63年に瀬戸大橋が開通したことを祝して記念貨幣が発行されました。「瀬戸大橋開通記念500円白銅貨」です。
瀬戸大橋(せとおおはし)は、瀬戸内海を跨いで本州(岡山県倉敷市)と四国(香川県坂出市)を結ぶ長大橋です。本州四国連絡橋のひとつで、1988年4月10日に供用開始となりました。 櫃石島・岩黒島・羽佐島・与島・三つ子島の5つの島の間に架かる下津井瀬戸大橋、櫃石島橋、岩黒島橋、与島橋、北備讃瀬戸大橋、南備讃瀬戸大橋という6つの橋梁とそれらを結ぶ高架橋により構成されており、橋梁部9,368 m、高架部を含めると13.1kmの延長を持ちます。これは鉄道・道路併用橋としては世界最長となります。また、工事の際に使用された「海底無線発破」の導入は世界初です。種類は、吊り橋・斜張橋・トラス橋の3種類を併設。総事業費は、1兆1338億円。 上部が4車線の道路(瀬戸中央自動車道)、下部が鉄道(JR四国本四備讃線(瀬戸大橋線))の2層構造となっています。上部の道路はさらに2車線を増設することが可能となっています。下部の鉄道は新幹線・在来線合わせて4線分通せるようになっていますが、在来線の本四備讃線用に2線分しか使われていません。計画中の四国横断新幹線が建設されることになれば、さらに2線増設され、東側2線が本四備讃線に、西側2線が同新幹線に使用される予定です。 設計速度は道路が100km/h(第1種第2級)、鉄道が在来線部120km/h、新幹線160km/h。 橋のライトアップは、事前に決められた日にしか行われません。これは、開通当初にライトアップの光により、「明るすぎて眠れない」、「漁業に影響が出る」等の「光」害を受け、周辺の住民に配慮したものです。 ![]() 瀬戸大橋 ![]() ![]() 瀬戸大橋開通記念500円白銅貨 図案 橋の全景 発行日 昭和63年8月29日(1988年) 直径 30mm 品位 銅750/ニッケル250 量目 13g 発行枚数 20.000.000枚
昭和63年に本州と北海道を結ぶ青函トンネルが開通したのを記念した記念貨幣が発行されました。「青函トンネル開通記念500円白銅貨」です。
青函トンネル(せいかんトンネル)は、津軽海峡の海底下約100mの地中を穿ち、青森県東津軽郡今別町浜名と北海道上磯郡知内町湯の里を結ぶ北海道旅客鉄道(JR北海道)の鉄道トンネル。2006年現在世界一(但し、海底部の総距離では英仏トンネルに次ぐ世界第二位)の長さを誇ります。全長が約53.9km(正確には53.85km)であることから、ゾーン539と愛称が付けられています。正式名は「青函隧道」(せいかんずいどう)。 青函トンネルの木古内方には、非常に短いシェルターで覆われたコモナイ川橋梁、さらに長さ約1.2kmの第1湯の里トンネルが続いており、合計約55kmの一体化したトンネルのようになっています。 青函トンネルを含む区間は海峡線となっており、北海道函館市~青森県青森市間を結ぶ津軽海峡線の一部ですが、新幹線鉄道規格新線として建設されており、将来北海道新幹線が通る予定になっています。 ![]() ![]() 青函トンネル ![]() ![]() 青函トンネル開通記念500円白銅貨 図案 トンネルとカモメ 発行日 昭和63年8月29日(1988年) 直径 30mm 品位 銅750/ニッケル250 量目 13g 発行枚数 20,000,000枚
昭和61年に昭和天皇が即位してから60年にあたるのを記念して記念貨幣が発行されました。この時我が国で初の記念金貨が発行されたのです。発行されたのは「昭和天皇御在位60年記念100.000円金貨」「昭和天皇御在位60年記念10.000円銀貨」「昭和天皇御在位60年記念白銅貨」です。また翌年の昭和62年には初のプルーフ記念貨を発行しました。
★プルーフ貨とは、極印を丁寧に磨き、打刻も繰り返し行い貨幣の表面を鏡状に仕上げた鑑賞用の貨幣でケース入り。金融機関での引き換えではなく、額面価格以上のプレミアが付いた価格で新聞告知により造幣局より販売されました。 昭和天皇略歴 1901年(明治34年)4月29日、大正天皇と貞明皇后の第一皇子として青山の東宮御所に誕生。称号は迪宮(みちのみや)。生後70日で枢密顧問官の伯爵川村純義に預けられ、沼津御用邸で養育されました。 1908年、(明治40年)学習院初等科に入学。学習院院長・乃木希典(陸軍大将)の厳格な教育を受けられました。 1912年(大正元年)陸海軍少尉 近衛歩兵第一連隊・第一艦隊附となられました。 1914年(大正3年)3月、学習院初等科御卒業。4月、陸海軍中尉任官。 1916年(大正5年)陸海軍大尉昇任。立太子礼をおこなって皇太子となられました。 1919年(大正8年)成年式。 1919年(大正8年)陸海軍少佐に昇任。 1921年(大正10年)3月3日から同年9月3日までイギリスをはじめヨーロッパ諸国を歴訪する。ロンドンにおいて、ロバート・ベーデン・パウエル卿と謁見し、英国ボーイスカウトの最高功労章であるシルバー・ウルフ章を贈呈される。 同年11月25日、20歳で摂政に就任されました(摂政宮と称される)。 1923年(大正12年)10月、陸海軍中佐昇任。12月27日、虎ノ門付近で無政府主義者の難波大助に狙撃されるが、命中せずに命を取り留めました。(虎ノ門事件) 1924年(大正13年)に久邇宮良子女王(のちの香淳皇后)と結婚。 1925年(大正14年)10月、陸海軍大佐に昇任。 1926年(大正15年)12月25日、大正天皇の崩御(死去)により践祚し、昭和に改元。第124代天皇及び陸海軍大元帥となられました。 1926年(昭和元年)12月、朝見の儀。 1928年(昭和3年)11月、京都御所にて即位の大礼を行われました。 1933年(昭和8年)12月23日、皇太子継宮明仁親王降誕(皇族の誕生を示す用語)。 1940年(昭和15年)、皇居前広場において紀元2600年奉祝式典に出席。 1941年(昭和16年)12月8日、太平洋戦争開戦。 1945年(昭和20年)8月15日、太平洋戦争終結を告げるラジオ放送(玉音放送)により、歴代天皇の中で初めて国民に天皇の声を聞かせました。 1952年(昭和27年)4月28日、サンフランシスコ講和条約発効。講和報告のため伊勢神宮と畝傍山陵・桃山御陵、靖国神社をそれぞれ参拝。 1959年(昭和34年)、皇太子明仁親王と正田美智子の成婚に出席。 1962年(昭和37年)南紀白浜にて30年前に訪れた神島を眺めつつ、熊楠をしのぶ歌を詠まれました。「雨にけふる神島を見て紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」 1971年(昭和46年)9月27日より香淳皇后とともにイギリス、オランダなどを歴訪。オランダでは生卵を投げつけられるという事件がありました。 1975年(昭和50年)9月30日から同年10月14日まで皇后とともにアメリカを訪問されました。 1981年(昭和56年)新年一般参賀で初めて「お言葉」を述べられました。 1987年(昭和62年)9月22日、歴代天皇で初めての開腹手術。 1989年(昭和64年)1月7日・午前6時33分、十二指腸乳頭周囲癌により崩御(死去)、87歳でした。 1989年(平成元年)2月24日、新宿御苑において大喪の礼が行われました。 と、ここまでが戦後の昭和を物語っています。 以下、在位60年として発行された記念貨幣です。 ![]() ![]() 昭和天皇御在位60年記念100.000円金貨 図案 鳩と水 発行日 61年銘 昭和61年11月10日(1986年) 直径 30mm 品位 金1000 量目 20g 発行枚数 10.000.000枚 ![]() ![]() 昭和天皇御在位60年記念100.000円金貨(普通:62年銘) 図案 鳩と水 発行日 62年銘 昭和62年5月13日 直径 30mm 品位 金1000 量目 20g 発行枚数 1.000.000枚 ![]() ![]() 昭和天皇御在位60年記念100.000円金貨裏(プルーフ:62年銘) 図案 鳩と水 発行日 62年銘 昭和62年5月13日 直径 30mm 品位 金1000 量目 20g 発行枚数 124.000枚 ![]() ![]() 昭和天皇御在位60年記念10.000円銀貨 図案 日の出と端鳥・端雲 発行日 昭和61年11月10日 直径 35mm 品位 銀1000 量目 13g 発行枚数 10.000.000枚 ![]() ![]() 昭和天皇御在位60年記念500円白銅貨 図案 京都御所内紫辰殿 発行日 昭和61年10月21日 直径 30mm 品位 銅750/ニッケル250 量目 13g 発行枚数 50.000.000枚
昭和60年が明治維新で明治政府が確立されて内閣制度を創始されてから100年にあたるのを記念に記念貨幣が発行されました。「内閣制度創始100周年記念500円白銅貨」です。
1885年12月22日、内閣官制に基づいて伊藤博文が初代の内閣総理大臣として内閣を組織したのが始まりとされています。 ![]() ![]() 内閣制度創始100周年記念500円白銅貨 図案 首相官邸 発行日 昭和60年12月18日(1985年) 直径 30mm 品位 銅750/ニッケル250 量目 13g 発行枚数 70.000.000枚 追記 日本には、キリ(白桐)を元にデザインされた家紋がいくつかあります。それらを総称して桐花紋というのですが、中でも「五七の桐」と呼ばれるデザインが有名です。そもそもキリは鳳凰の宿る木として神聖視されており、天皇の衣類などに用いられるなど、「菊の御紋」に次ぐ高貴な紋章とされました。足利尊氏や豊臣秀吉などが天皇からこの家紋を賜っており、以来武家の間で流行した家紋の一つでした。 近代以後も「五七の桐」は慣例的に首相・政府の紋章として、あるいは菊花紋に準じる国章として用いられ、大礼服(宮中の重大儀式おいて着用する儀礼用制服)や旭日章、首相官邸の備品、首相記者会見の演台などに使用されています。 また、神紋(神社の紋)としても広く用いられているのです。 ![]() 五七の桐花紋
昭和60年に茨城県筑波郡谷田部町で国際科学技術博覧が開催されたのを記念して、記念貨幣が発行されました。「つくば国際科学技術博覧会記念500円白銅貨」です。
国際科学技術博覧会(こくさいかがくぎじゅつはくらんかい、英語表記〝The International Exposition,Tukuba,Japan,1985〟通称「科学万博」・「つくば'85」・〝TSUKUBA EXPO '85〟)は、茨城県筑波郡谷田部町(現・つくば市御幸が丘)で、1985年3月17日から同年9月16日までの184日間にかけて行われた国際博覧会です。 1981年4月22日に『「国際博覧会に関する条約」に基づく特別博覧会』として登録され開催が決定し、財団法人国際科学技術博覧会協会が主催となって行われました。 「人間・居住・環境と科学技術(Dwelling and Surroundings? Science and Techonology for Man at Home)」を博覧会統一主題(いわゆる「テーマ」です。)とし、日本国を含む48カ国と37の国際機関が参加しました。総入場者数は、2033万4727名(当時の特別博覧会史上最高入場者記録でした。)。会場面積は101.6ヘクタール。 シンボルマーク 「宇宙」・「地球」・「人間」・「科学」・「芸術」などの未来像をイメージして作られたという。 かたちは、青地の三角形(三角形の頂点は「筑波の山々」を表し、3つの角は、「人間」・「居住」・「環境」を表す。)の中に白丸(「太陽」を表す。)と2個の輪(「人間」と「科学」を表す。)が描いた形のものが使用されました。田中一光作。 ![]() シンボルマーク マスコット つくば博のマスコットキャラクターは、土星に手足が付いた様なキャラクターである「コスモ星丸(ほしまる)」でした。1981年から1982年にかけて、日本全国の小中学生から公募され、当時、愛知県一宮市に住んでいた中学一年生の女子生徒が「UFO」をイメージして書いたものを、選考委員であった和田誠が、少々、手直しをしたものであるといいます。尚、当初の名まえは「ピコちゃん」であったが、途中で、「コスモ星丸」に変更されたようです。 ![]() コスモ星丸 ![]() ![]() つくば国際科学技術博覧会記念500円白銅貨 図案 筑波山の梅 発行日 昭和60年3月12日(1985年) 直径 30mm 品位 銅750/ニッケル250 量目 13g 発行数 70.000.000枚
昭和51年に昭和天皇が御在位されてから50年経過されたのを記念して記念貨幣が発行されました。皇居と菊の御紋をあしらった「昭和天皇御在位50年記念100円白銅貨」です。
昭和天皇についての記載はのちほど書きます。 ![]() ![]() 昭和天皇御在位50年記念100円白銅貨 図案 皇居と菊の御紋 発行日 昭和51年12月23日 追加発行 52年2月3日 直径 30mm 品位 銅750/ニッケル250 量目 12g 発行枚数 70.000.000枚
昭和50年(1975年)に沖縄で初めて博覧会が開催されました。その時の開催を記念して発行されたのが「沖縄海洋博覧会記念100円白銅貨」です。
沖縄国際海洋博覧会(おきなわこくさいかいようはくらんかい)は、沖縄県国頭郡本部町で183日間の会期(1975年7月20日 - 1976年1月18日)をもって行われた国際博覧会。「海-その望ましい未来」をテーマとし、日本を含む36カ国と三つの国際機関が参加しました。総入場者数は、約349万人。 未来型海洋都市のモデルとして人工島「アクアポリス」が建設展示されました。 また、この会場内アクセスとして新交通システムが日本で初めて試行されました。神戸製鋼所が開発した新交通システム(KRT)が会場内の交通機関として導入されたのです。いわゆる案内軌条式鉄道による新交通システム(モノレールなど)です。 海洋博覧会の跡地には、国営沖縄記念公園が開園しました。 ![]() アクアポリスと国営沖縄記念公園 ![]() 海洋博水族館 ![]() ![]() 沖縄海洋博覧会記念100円白銅貨 図案 守礼門とシンボルマーク 発行日 昭和50年7月3日(1975年) 追加発行 10月22日 直径 22.6mm 品位 銅750/ニッケル250 量目 4.8g 発行枚数 120.000.000枚
昭和39年の東京オリンピック、昭和45年の大阪万博に続いて昭和47年(1972年)にはアジアでは初めての冬季オリンピックが北海道・札幌で開催されました。その時の開催を記念して発行されたのが「札幌オリンピック記念100円白銅貨」です。
![]() ![]() 札幌オリンピック(さっぽろオリンピック、第11回オリンピック冬季競技大会 札幌大会、XI Olympic Winter Games SAPPORO 1972)は、日本の北海道札幌市で1972年2月3日から2月13日まで行われました。冬季オリンピックとしては、日本およびアジアで初めて行われたのです。 参加国 地域数 35 参加人数 1006人(男性801人、女性205人) 実施競技種目数 6競技35種目 開会宣言 昭和天皇 開会式 1972年2月3日 真駒内屋外競技場 閉会式 1972年2月13日 真駒内屋内競技場 選手宣誓 鈴木恵一(スピードスケート) 審判宣誓 荒木ふみお 最終聖火ランナー 辻村いずみ(札幌北高:フィギュアスケート) 高田英基(札幌旭丘高:バレーボール) 主競技場 真駒内屋外競技場 大会のハイライト 大会の花形スキージャンプ70m級(現在のノーマルヒル)では、笠谷幸生が1位(金)、金野昭次が2位(銀)、青地清二が3位(銅)と、日本人が冬季オリンピックでは初めて表彰台を独占しました。日本は地元とあって大選手団を送り込み、冬季オリンピックの歴史上メダル獲得1個だけ(猪谷千春:アルペン回転銀メダル)であった時代に,ジャンプ70m級の金銀銅メダル独占という快挙に結実しました。後に、日本のジャンプ陣が日の丸飛行隊と呼ばれる様になったのもこのメダル独占がきっかけです。 フィギュアスケートで銅メダルだったジャネット・リン(アメリカ、当時カルピスのCMにも出演)が、日本中で人気になりました。 スピードスケート長距離のアルト・シェンク(オランダ)は,1500m,5000m,10000m 3冠王の活躍。 大会のテーマ曲となったのは、作詞:河邨文一郎、作曲:村井邦彦でトワ・エ・モアが歌った『虹と雪のバラード』でした。 ![]() ![]() 札幌冬季オリンピック記念100円白銅貨 図案 聖火 発行日 昭和47年1月28日(1972年) 直径 30mm 品位 銅750/ニッケル250 量目 12g 発行枚数 30.000.000枚
それでは平成11年に発行された天皇陛下御在位10年記念コインから平成17年に発行された中部国際空港開港記念コインまでを紹介します。
![]() ![]() 天皇陛下御在位10年記念10.000円金貨裏(プルーフセット) ![]() 天皇陛下御在位10年記念500円白銅貨(プルーフセット) ![]() ![]() 天皇陛下御在位10年記念500円白銅貨 ![]() ![]() 2002FIFAワールドカップ記念10.000円金貨裏(プルーフセット) ![]() ![]() 2002FIFAワールドカップ記念1.000円銀貨裏(プルーフセット) ![]() ![]() 2002FIFAワールドカップ記念500円ニッケル黄銅貨(ユーラシア、アフリカ) ![]() ![]() 2002FIFAワールドカップ記念500円ニッケル黄銅貨(アジア、オセアニア) ![]() ![]() 2002FIFAワールドカップ記念500円ニッケル黄銅貨(南北アメリカ) ![]() ![]() 第5回アジア冬季競技大会記念1.000円銀貨(プルーフセット) ![]() ![]() 奄美群島復帰50周年記念1.000円銀貨(プルーフセット) ![]() ![]() 2005年日本国際博覧会記念10.000円金貨(プルーフセット) ![]() ![]() 2005年日本国際博覧会記念1.000円銀貨(プルーフセット) ![]() ![]() 2005年日本国際博覧会記念500円ニッケル黄銅貨 ![]() ![]() 中部国際空港開港記念500円銀貨(プルーフセット) と、ここまでが今まで発行された記念貨幣です。次回からはそれぞれのコインのエピソードを紹介していきます。
それでは平成に入ってから発行された記念コインです。
平成2年に発行された国際花と緑の博覧会記念コインから長野オリンピック記念コインまでを紹介します。 ![]() ![]() 国際花と緑の博覧会記念5.000円銀貨 ![]() ![]() 裁判所制度100周年記念5.000円銀貨 ![]() ![]() 議会開設100周年記念5.000円銀貨 ![]() ![]() 天皇陛下御即位記念100.000円金貨 ![]() ![]() 天皇陛下御即位記念500円白銅貨 ![]() 沖縄復帰20周年記念500円白銅貨(プルーフセット) ![]() ![]() 沖縄復帰20周年記念500円白銅貨 ![]() 皇太子殿下御成婚記念50.000円金貨(プルーフセット) ![]() ![]() 皇太子殿下御成婚記念50.000円金貨 ![]() 皇太子殿下御成婚記念5.000円銀貨(プルーフセット) ![]() ![]() 皇太子殿下御成婚記念5.000円銀貨 ![]() 皇太子殿下御成婚記念500円白銅貨(プルーフセット) ![]() ![]() 皇太子殿下御成婚記念500円白銅貨 ![]() 関西国際空港開港記念500円白銅貨(プルーフセット) ![]() ![]() 関西国際空港開港記念500円白銅貨 ![]() 第12回アジア競技大会記念500円白銅貨(走る)(プルーフセット) ![]() ![]() 第12回アジア競技大会記念500円白銅貨(走る) ![]() 第12回アジア競技大会記念500円白銅貨(泳ぐ)(プルーフセット) ![]() ![]() 第12回アジア競技大会記念500円白銅貨(泳ぐ) ![]() 第12回アジア競技大会記念500円白銅貨(跳ぶ)(プルーフセット) ![]() ![]() 第12回アジア競技大会記念500円白銅貨(跳ぶ) ![]() ![]() 長野オリンピック冬季競技大会記念10.000円金貨(第1次・プルーフセット) ![]() 長野オリンピック冬季競技大会記念5.000円銀貨(第1次・プルーフセット) ![]() ![]() 長野オリンピック冬季競技大会記念5.000円銀貨(第1次) ![]() ![]() 長野オリンピック冬季競技大会記念500円白銅貨(第1次) ![]() ![]() 長野オリンピック冬季競技大会記念10.000円金貨(第2次・プルーフセット) ![]() 長野オリンピック冬季競技大会記念5.000円銀貨(第2次・プルーフセット) ![]() ![]() 長野オリンピック冬季競技大会記念5.000円銀貨(第2次) ![]() 長野オリンピック冬季競技大会記念500円白銅貨(第2次・プルーフセット) ![]() ![]() 長野オリンピック冬季競技大会記念500円白銅貨(第2次) ![]() ![]() 長野オリンピック冬季競技大会記念10.000円金貨(第3次・プルーフセット) ![]() 長野オリンピック冬季競技大会記念5.000円銀貨(第3次・プルーフセット) ![]() ![]() 長野オリンピック冬季競技大会記念5.000円銀貨(第3次) ![]() 長野オリンピック冬季競技大会記念500円白銅貨(第3次・プルーフセット) ![]() ![]() 長野オリンピック冬季競技大会記念500円白銅貨(第3次) と、ここまでで一段落です。
ども~(^^)久しぶりの投稿です。
今日から日本の記念コインについて書いていこうと思います。 以前に近代金貨などを書いていましたが今回は戦後の様々な日本のイベントに合わせて作られた記念すべきコインの紹介です。記念貨幣類は昭和39年の東京オリンピックの記念銀貨から最近では平成17年の中部国際空港開港記念銀貨までさまざまなコインが発行されています。 まずは戦後復興の証しとなった東京オリンピック記念1.000円銀貨から昭和63年の瀬戸大橋開通記念500円白銅貨までの昭和の記念貨幣を写真で紹介です。それぞれのエピソードは後日書いていきます。 ![]() ![]() 東京オリンピック記念1000円銀貨 ![]() ![]() 東京オリンピック記念100円銀貨 ![]() ![]() 日本万国博覧会記念 100円白銅貨 ![]() ![]() 札幌冬季オリンピック記念100円白銅貨 ![]() ![]() 沖縄海洋博覧会記念100円白銅貨 ![]() ![]() 昭和天皇御在位50年記念100円白銅貨 ![]() ![]() つくば国際科学技術博覧会記念500円白銅貨 ![]() ![]() 内閣制度創始100周年記念500円白銅貨 ![]() ![]() 昭和天皇御在位60年記念100.000円金貨 ![]() ![]() 昭和天皇御在位60年記念100.000円金貨(普通:62年銘) ![]() ![]() 昭和天皇御在位60年記念100.000円金貨(プルーフ:62年銘) ![]() ![]() 昭和天皇御在位60年記念10.000円銀貨 ![]() ![]() 昭和天皇御在位60年記念500円白銅貨 ![]() ![]() 青函トンネル開通記念500円白銅貨 ![]() ![]() 瀬戸大橋開通記念500円白銅貨 と、昭和に発行された記念コインのすべてです。次は平成に入ってから発行された記念貨幣を紹介します。
ども~(^^)本当に久しぶりの投稿になりました。4月に入って初めての投稿です。
また頑張って書いていこうと思います。今日は「浅井忠」にスポットライトを当ててみました。 浅井 忠(あさい ちゅう、安政3年6月21日(1856年7月22日) - 明治40年(1907年)12月16日)は、日本を代表する西洋画家です。 佐倉藩(現在の千葉県佐倉市)の江戸屋敷に藩士・浅井常明の長男として生まれました。少年時代は現在の佐倉市将門町で1863年から1872年までを過ごし佐倉藩の藩校・成徳書院(現在の千葉県立佐倉高等学校の前身)で学問に勤しみました。父・常明は、この成徳書院の校長をしていたこともあり、四書五経などの儒教や武芸を学ぶかたわら、13歳の頃から佐倉藩の南画家・黒沼槐山に花鳥画を学び、「槐庭」(かいてい)の号を与えられ、この頃から才能の一端を現しました。 1873年(明治6年)に上京。はじめは英語の塾で学んでいいましたが、1875年(明治8年)に彰技堂で国沢新九郎の指導のもと油絵を学び、1876年(明治9年)に工部美術学校に入学、西洋画を学び特にフォンタネージの薫陶を受けます。卒業後は、新聞画家としての中国派遣などを経て、1898年(明治31年)に東京美術学校(現在の東京芸術大学)の教授となりました。その後、1900年(明治33年)からフランスへ西洋画のために留学し、日本の西洋美術を牽引することになるのです。 1902年(明治35年)に帰国後、京都高等工芸学校(現在の京都工芸繊維大学)教授となり、個人的にも聖護院洋画研究所(後の関西美術院)を開いて、後進の育成にも努力しました。画家としてだけではなく教育者としても優れた人物であったのです。日本洋画の父ともいわれるのは教育者として、また優れた画家としても併せ持つ才能だったのです。 また、正岡子規にも西洋画を教え、夏目漱石の小説「三四郎」の中で深見画伯として名前をかえて登場しています。 ![]() 「春畝(しゅんぽ) 」 # by oyaziknight555 | 2006-04-19 00:29
ども~(^^)久しぶりの投稿になりました。近代絵画と画家を紹介していますが、最近は誰の作品なのか写真を集めて分かる様になってきました。まあ実際に本物を見ないと分からないわけですがネットで作品の名前と作者の名前が出てるわけですから当たり前と言えば当たり前です。さすがに真贋はわかりませんが・・・・
では、今日は小早川清です。 福岡県博多出身の小早川清(1899-1948)は、13歳で郷土の南画家上田鉄耕に師事しました。19歳の時、上京して鏑木清方門下となり、美人画を学びました。1924年、第5回帝展に初入選し、その後は、帝展・日展を主な活動の舞台として活躍しました。小早川清は小児麻痺後遺症のため不自由な左手1本で絵を描いたそうです。 その頃の時代は独自性があり従来の大きな版元からではなく、画家が自ら彫り師や刷り師を雇って出版した「私家版」の版画も見られます。 小早川清も、私家版の出版に乗り出した一人。昭和5年に『近代時世粧』6点組を刊行しています。モデルは浅草の芸者や断髪のモダンガール、カフェの女給たちです。この時代のカフェとはただの喫茶店ではありません。現在の風俗店に近いようなピン クサービスを売り物にしていました。 1948年に49歳という若さで脳溢血で死去しました。 孤独な天才絵師といった感があります。 ![]() 「踊り」 ![]() 「化粧」
橋口五葉は鹿児島市樋之口町に生まれました。本名は清、1900年東京美術学校西洋画科本科に入学。在学中に夏目漱石の知遇を得て、雑誌『ホトトギス』に挿絵を描くようになったと共に漱石の単行本の装幀を担当しました。1907年、東京勧業博覧会に出品した油彩衝立「孔雀と印度女」が2等賞牌受賞。同年第1回文展に油彩画「羽衣」が入選。1911年三越呉服店の懸賞広告画に応募した「此美人」が1等賞・賞金壱千円を獲得し、三間印刷所製石版ポスターとなって話題になります。大正に入り浮世絵研究家としても知られるようになったのです。浮世絵研究を重ねると共に、版元渡辺庄三郎の勧誘を受けて、自ら版下絵を描き、彫師・摺師と共に木版画制作を行うといった「新版画」運動を展開。その最初の作品が1915年の「浴場の女(浴後裸体女)」となりました。 その後「耶馬渓」、「化粧の女」、などの多色摺木版画を制作する一方で、浮世絵普及のための浮世絵名品復刻事業も行いました。1920年に「髪梳ける女」をはじめ10点の版画を完成しましたが、翌1921年2月逝去。享年41歳でした。存命中に完成した大判の木版画は13点と少ないが、気品・優美・繊細な大正版画の代表的版画家として国際的評価が高いそうです。
![]() 「温泉宿」 ![]() 「夏装乃娘」 ![]() 「浴場(ゆあみ)の女」 ![]() 「化粧の女」 # by oyaziknight555 | 2006-03-27 17:31
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